最近、意識してやっていることがあります。
身体にちゃんと触れて、「今日もありがとう」と伝えることです。
お風呂上がりに、足やお腹、胸のあたりをそっとさすりながら、
今日も一日、無休で支えてくれてありがとう
と、心の中でつぶやいてみる。
そんなささやかな時間が、少しずつ日常の一部になってきました。
ちょっと変な話に聞こえるかもしれませんが、
見事な形の大便が出たとき、私はときどき本気で感心してしまいます。
「ああ、腸内細菌たち、今日もよく働いてくれてるなあ」と。
食べたものを分解してくれる細胞や酵素
栄養と不要物を仕分けしてくれる腸
それを外に送り出してくれる筋肉たち
ふと胸に手を当ててみると、今この瞬間も心臓は休むことなく動き続けています。
胃や腸、肝臓や腎臓などの内臓も、寝ているあいだでさえ黙々と働き、
骨は体を支え、皮膚は外から守り、神経は全身の情報をやりとりし、
細胞の一つひとつが、自分では意識していないところで
「今日も生きるほう」を選び続けてくれている。
私は何も指示していないのに、
身体の中では、休みなく見事なチームプレーが続いています。
当たり前のようにトイレに行き、当たり前のように排泄しているその裏側で、
無数の「いのち」が黙々と働き続けてくれている。
そう思うと、身体に触れて感謝を伝える行為は、
長年一緒に働いてくれている仲間に向かって、
今日も本当に、ご苦労さま
と声をかけるようなものなのかもしれません。
一方で、身体はただ黙って支えてくれているだけではありません。
ときどき、過剰防衛反応のような形で、
過去のトラウマがふいにフラッシュバックしたり
急に心臓がざわざわし出したり
昔の悔しさや理不尽さが、何の前触れもなくよみがえったり
そんなことも起こります。
不思議なのは、それが起こるのが「危険な現場」だけではないことです。
実際には、物質的には何の問題もなく、
静かな部屋で一人で座っているだけのまったく安全な場所でも、
心臓だけがドクドクと早くなったり、体が固まって動けなくなったりすることがある。
現実のいま・ここには危険がないのに、
身体だけが過去の戦場に連れ戻されてしまうようなこの反応を、
私は「壊れている」と切り捨てるよりも、
「守ろうとしてくれている過剰防衛」として受け取るほうが、しっくりくると感じています。
振り返ってみると、
その多くは 「言い返したかったのに、辛抱して抑えこんだ場面」 とよく似ています。
悔しかった出来事
理不尽な扱いをされた場面
「それは違う」と言いたかったのに、飲み込んで笑ってやり過ごした瞬間
頭では「もう終わったこと」と片づけても、
身体のほうは、ちゃんと覚えていてくれているのかもしれません。
「あのとき守れなかったから、今度こそ守ろうとしているんだよ」
そんなふうに、身体が警報を鳴らしているようにも感じます。
今の時代は、不思議なところがあります。
昔は「お騒がせして申し訳ございません」だったようなことが、
今はむしろ、
お騒がせすることで注目を集め、数字を伸ばす手段
として使われることが増えました。
強い言葉で誰かを叩けば、拍手を送る人がいる
問題を起こしても、話題になれば仕事につながることもある
「炎上」すら、一種のプロモーションのように扱われることがある
そんな空気の中では、
「言いたいことを飲み込んでしまう人」のほうが損をしている
ように見えるかもしれません。
でも私は、基本的にその真逆で、
できるだけ波風を立てたくないタイプです。
(目的が明確な「建設的な議論」は別として)
その理由は、とてもシンプルで、
「相手が自分だったら、どう感じるだろう?」
と、つい考えてしまうからです。
だからといって、何でも我慢すればいいとも思っていません。
「言わなければ、それは認めたことになる」と言われても、
何でもかんでも好き勝手に言うことは、どうしてもできない。
かといって、相手を好きにさせておいて、
「沈黙は金だ」と割り切ることもできない。
その狭間で、
身体の防衛反応が強くなり、フラッシュバックが起こる ことがあるのだと思います。
フラッシュバックそのものは、正直、気持ちのいいものではありません。
「あのとき、こう言い返せばよかった」
「あれはどう考えても理不尽だった」
そんな感情が、一気に押し寄せてきます。
それでも最近は、
そんな感覚に飲み込まれそうになったとき、
なるべく身体に向かって、こう言うようにしています。
「知らせてくれてありがとう。
でも、今はもう大丈夫だよ。」
これは、相手に対してではなく、
自分の身体に対してかける言葉です。
守ろうとして、警報を鳴らしてくれていること自体は、ありがたいこと。
ただ、その警報をずっと鳴りっぱなしにしておくと、
今度は自分自身が持たなくなってしまいます。
だから、
「あのとき守れなかったことを、ちゃんと分かっているよ」
「悔しかったね、理不尽だったね」
といった気持ちも含めていったん受け止めたうえで、
「でも、今いる場所はもう安全だから、大丈夫だよ」
と、そっと身体に言い聞かせてみる。
うまくいく日もあれば、なかなか静まらない日もあります。
それでも、何も言わずにただ耐えていた頃よりは、呼吸が少し楽になる ように感じています。
飲み込んだ出来事を、ただ「なかったこと」にしてしまうと、
どこかで身体に溜まっていくような感覚があります。
だからといって、全部を言葉にしてぶつけ返せばいい、
という話でもありません。
今の私は、その中間のようなことをしようとしています。
まずは、「悔しかった」「理不尽だった」と正直に認める
「それでも、あのとき自分はその場で飲み込む選択をした」と事実を確認する
そのうえで、成長の燃料として消化し、あとは少しずつ手放していく
それは、
「二度と同じ飲み込み方はしないようにしよう」
「次は、自分や大切な人をもっと守れる選び方をしよう」
と決め直していく作業でもあります。
簡単ではありませんが、
そのプロセスの中で、たしかに エネルギーは発生している と感じます。
そのエネルギーを、誰かを傷つける方向ではなく、
自分を守る力
大切な人を守る力
もう少しだけ、誠実に生きようとする力
に変えていけたなら、
それはきっと 「悔しさや理不尽さをバネにする」 ことと言えるのかもしれません。
過去のトラウマやフラッシュバックは、
完全に消え去るわけではないと思います。
それでも、
少し長い目で自分の人生を俯瞰して眺めながら
「今ここで感じている恵まれた実感」を、大切に抱えながら
トラウマとうまく付き合う方法を
探し続けることはできるはずです。
身体は、逃げられない相手です。
自分自身からは、どこにも逃げられません。
だからこそ、
これまで無茶をさせてきた自分
守りきれなかった場面もあった自分
それでもここまで一緒に生き延びてきた自分と身体
と、少しずつ仲直りしていきたいと思っています。
身体との対話は、
トラウマを消し去るための魔法ではなく、
「これからも一緒に生きていく相棒」として、
どうやって支え合っていくかを静かに相談する行為
なのかもしれません。
今日もまたフラッシュバックが来たら、
深呼吸をして、そっとお腹や胸に手を当ててみる。
「知らせてくれてありがとう。
でも、今は大丈夫だよ。」
そう声をかけながら、
身体との距離を、少しずつ近づけていけたらいいなと思っています。