― ネットの「声の大きさ」と、静かな現実のあいだで迷わないためのメモ ―
スマホでニュースアプリを開いたり、
SNSのタイムラインをなんとなく眺めていたりするとき。
炎上している誰か。
何かを断罪する強い言葉。
誰かをバカにして笑い合う動画。
そういうものが、延々と流れてくることがあります。
画面の向こうでは、誰かが誰かを叩き、
「これが世の中の空気だ」と言わんばかりに、同じ話題が何度も何度も流れてくる。
でも顔を上げてみると、
近所のスーパーでレジを打っている人は黙々と仕事をしていて、
道ですれ違う人たちは、特に誰かを罵倒しているわけでもない。
このギャップに、いつも小さな違和感があります。
ネットは、情報でできています。
そこでは、何が目立つかは「情報量」で決まるところがあります。
量と言っても、単純な件数だけではありません。
どれだけ刺激的か
どれだけ拡散されやすいか
どれだけ引用や批判の対象になりやすいか
こういった“質”も、広い意味では情報量の一部だと思います。
何度も投稿される
何度も引用される
何度も批判・擁護の対象になる
そうやって「量」を増やしたものが、
あたかも「世の中の主流の意見」であるかのように見えてしまう。
でも実際には、
多くの人は仕事をしていて、自由に使える時間は限られています。
家族を支えながら働いている人。
現場で黙々と作業をしている人。
人と直接向き合う仕事をしている人。
こういう人たちは、そもそも、
炎上に参加している暇もなければ、長文の主張を毎日ネットに書き込む時間もほとんどないかもしれません。
一方で、ネットの中で目立ちやすいのは、
時間が余っていて、しかもストレスが多い少数派なのかもしれない、と感じることがあります。
不満や怒りをぶつける場所を探している
強い言葉で誰かを断罪したくなる
「自分は正しい」と確認できる仲間を求めている
そういう気持ちが強い人ほど、
何度も何度も書き込み、
刺激的な言葉で、情報量を増やしていきます。
その結果、
本当はごく一部の声でしかないものが、
画面の上では「世界のすべて」のように見えてしまう。
そんなことが起こりやすいのだと思います。
ネットにユーザーを奪われたメディアは、
こぞって「ネットの反応」を取り上げるようになりました。
「SNSでは、こんな声が上がっています」
「ネット上で物議を醸しています」
手っ取り早く話題を拾おうとするとき、
すでにネットで目立っているものを参考にすることが多くなります。
その一方で、メディア側には、
ネット住民の影響力を恐れる気持ち
炎上を避けたい気持ち
なんとか注目を集めたい焦り
もあります。
その結果、
自分たちの足で取材して先を示すというより、
「ネットで話題の○○」を後追いでなぞるだけの存在になりつつある
本当に感じていることや、違和感のあることを、
はっきりと言いづらい空気が強くなる
という歪みも生まれているように見えます。
メディアがネットを気にしすぎるあまり、
ネットにおもねり、媚びる形で情報を出すようになると、
ますます「本当のこと」が見えにくくなっていく。
そして、人々の側も、
「本当はこう思っている」とは言いにくくなり、
無難な空気に合わせるようになっていく。
そんな循環も、どこかで起きているのかもしれません。
実は、ネットの住民自身も、
そうしたパターンにはすでに見飽きていて、
内心では辟易している部分もあるのかもしれません。
それでも、
強い言葉で断定する
誰かをバカにして笑いを取る
「敵」と「味方」を分ける
といったテンプレートは、
「数字が取れるフォーマット」としてコピーされ続けています。
海外(とくにアメリカ発)のメディア文化やネット文化の影響も、
少なからずあるのかもしれません。
過激な見出し
ショッキングな映像
煽るようなサムネイル
そういうスタイルが「正解」として輸入されてしまうと、
同じような手法を真似するクリエイターが増え、
画面の中が似たような強さのコンテンツであふれていきます。
その結果、本当は静かなもの、
言葉にならない小さな温度を持ったものほど、
目立ちにくくなってしまう。
国や法律が整っていない昔、
単純な“力”がそのまま支配に直結していた時代がありました。
暴力が扱える人
武力を持つ少数の人
そういう存在が、
そのまま「正義」や「ルール」を決める側に立っていた時代です。
今の現実世界では、少なくとも表向きには、
昔に比べてずっと安全に暮らせるようになりました。
暴力を振るえば、法律で裁かれる
露骨な「力による支配」は、昔より通用しにくくなった
むしろ今では、
暴力を使えば、自分自身が不利になることのほうが多くなっています。
けれどもネット空間は、
ある意味で、昔の「力の時代」に似ているところがあると感じます。
強い言葉
相手を一刀両断するような断定
嘲笑やあざけり
そういった「言葉の暴力」が、
まだ十分に整備されていないルールの中で飛び交っている。
現実世界ではリスクが大きくてできないことが、
ネット越しなら簡単にできてしまう。
今のネットは、
法やマナーが追いついていない“中途半端な開拓時代”
のような場所なのかもしれません。
それでも私は、どこかでこんな仮説も持っています。
ゆくゆくは、心を傷つける言動や、
単純に「強いだけ」の言葉は、
だんだん見向きもされなくなっていくのではないか。
一時的には、
攻撃的な意見や、誰かをバカにして笑うコンテンツのほうが、
再生数や「いいね」を集めることもあると思います。
でも長い目で見れば、それだけを浴び続けたい人は、
そこまで多くはない気もしています。
実際、現実の生活に目を向けると、
仕事の現場
家庭の中
友人との小さなやり取り
こういう場所を支えているのは、
派手な言葉や炎上ではなく、
地味で、静かで、当たり前すぎてニュースにならない「思いやり」ばかりです。
私にとって、大切で尊敬できるのは、
ネットで強い言葉を大きな声で発している有名人ではありません。
散歩をしているとき、
すれ違いざまに「こんにちは」と一言だけ挨拶をしてくれる見知らぬ人。
それは大人とは限らず、子どもの場合もあります。
そういう、身近で感じられるささやかな温もりの方が、
「本当のこと」にずっと近い気がしています。
とはいえ、強い言葉そのものを、完全に否定したいわけでもありません。
正直に言うと、私はそうした強い言葉や、
わざと人を不安にさせたり、不快にさせたりすることで
注目や利益を集めようとするやり方に対しても、
少しだけ感謝している部分もあります。
なぜなら、それが
「自分はここには乗らないでおこう」
「自分はこういうやり方は選ばないでおこう」
と判断するための、分かりやすい「目印」になってくれるからです。
強い言葉や、不快さで惹きつけようとする表現を目にしたときに、
> ああ、私はこういう方向には流されないでおこう
と、そっと自分の選択を確認するきっかけにする。
その意味では、そうした表現もまた、 自分の立ち位置を確かめるための
ひとつのリトマス試験紙のような役割を果たしてくれているのかもしれません。
ここまで書いてきたことは、
もしかすると、どれも当たり前のことなのかもしれません。
「ネットは偏っている」「現実のほうが静かだ」
そんなの分かっているよ、と言われても不思議ではないと思います。
でも、私が少し怖いと感じているのは、
その当たり前が、いつの間にか少しずつすり替わっていっても、
なかなか気づきにくいところです。
タイムラインを眺めているうちに、
気づけば「それが世界の全部」のような気持ちになってしまう。
本当はごく一部の切り取りでしかないのに、
いつの間にか、それが基準になってしまう。
だからこそ、自分の心を守るためにも、
ネットは「世界そのもの」ではなく、
「偏った切り取りの一部」なのだ
と意識しておきたいと思っています。
ネットは便利。情報も早く手に入る
でも、そこで目立つ声が「現実の多数派」だとは限らない
時間が余っている人、ストレスが多い人の声が増幅されやすい
そう考えるとき、
情報収集のつもりで、
ただ「声の大きい少数派」ばかりを浴びていないか?
という問いを、ときどき自分に向けてみたくなります。
今の私は、ニュースはまったく見ず、
SNSも一切やらない生活になりました。
それでも、不便さはほとんど感じていません。
むしろ、心の中がとても静かになり、快適に暮らせている実感があります。
振り返ってみると、
本当に必要な情報は、ごく一部だけだったのだと思います。
生活に直接関わること
今いる場所や仕事に本当に必要なこと
自分から知りたいと思って調べること
それさえ押さえておけば、
「すべてのニュースを追いかける必要」はなかったのかもしれません。
情報収集をするときに、
ネットだけを「世界のすべて」にしない
画面を閉じて、足元の現実をもう一度見てみる
目の前の人との小さなやり取りの方を、大切にカウントし直してみる
そんな小さなバランスの取り方を、
自分なりに続けていきたいと感じています。
ここに書いてあることは、すべてその時点での仮説で、
将来「間違っていた」と気づくかもしれません。
それでも、ネットと現実の違いに揺れながら、
間違いを恐れすぎずに、
今日も少しずつ「どう情報と付き合っていくか」を考え続けていきたいと思います。