SNSやニュースを眺めていると、毎日のように
「◯◯は社会をダメにする」
「今の◯◯は異常だ」
「本当の正義はこっちだ」
そんな言葉が流れてきます。
最初は「なるほど」と思って読んでいても、
だんだんと、胸のあたりがざわざわしてくることがあります。
誰かを激しく責め立てる言葉
グループ同士を対立させるような言い回し
「こっちに付かないと、悪の側だ」と匂わせる空気
そうしたものに毎日触れていると、
世界がどんどんギスギスしていくように感じて、
少しだけ絶望的な気分になることがあります。
よくよく見てみると、「われこそは正義」という主張には、
いくつか共通するパターンがあるように感じます。
先に「正義」を名乗ったほうが勝ち
先に「◯◯をダメにする」と言ったほうが、
自分は「ダメにしない側=正しい側」に見せられる
「絶対」「唯一」「本物」という言葉を好んで使う
つまり、
先にラベルを貼ったほうが有利になる
という、とてもシンプルなトリックです。
「自分は正しい」という前提を強く押し出すほど、
反対側に回る人は「間違っている」「敵だ」という扱いになりがちです。
その空気の中では、
落ち着いて事実を眺めること
立場の違う人の話を聞くこと
が、どんどん難しくなっていきます。
もう少し身近な例でいえば、自分のことを棚に上げて、他の人を軽蔑する場面にも、よく似た構造が見えます。
自分の容姿や性格だって決して完璧ではないのに、先に誰かの見た目や振る舞いを笑いものにすることで、「自分はそことは違う側」に立っているつもりになる。
それは、欠点そのものよりも、「先に断定して相手を下に置く」という振る舞いの方が、ずっと滑稽で、そして危ういものだと感じています。
そして、こうした場面を「これはおかしいな」と感じるたびに、同時に「自分はそうなっていないだろうか?」と、自分にも矢印を向けるようにしています。
誰かの振る舞いを遠くから笑うだけではなく、「もしかしたら自分の中にも同じ芽があるかもしれない」と一度立ち止まってみること。
その小さな自問自答もまた、「断定して奪う側」に回らないための、静かなブレーキだと思っています。
こうした「われこそは正義」の語りは、
しばしば分断を煽る手法とセットで使われます。
Aグループは正義
Bグループは間違っている
だから、Bを叩いてもいい
という構図をつくり、
「さあ、どちらの側に立ちますか?」
と迫ってくるのです。
このとき、人の心の中には、
こんな恐れが生まれやすくなります。
「いじめられる側になりたくないから、
いち早く“いじめる側”に群がっておこう」
いじめの構図とよく似ています。
最初に誰かを標的にする声が上がる
周りは「自分が狙われたくない」から、その声に乗る
いつのまにか、大勢で一人を叩いている
その流れの中で、
本当にその人が悪いのか
何が起きているのか
どこまでが事実で、どこからが脚色なのか
を、落ち着いて確かめる余裕は、どんどん失われていきます。
インターネットとマーケティングの技術が進化したことで、
この「分断を煽る力」は、さらに強くなったように感じます。
感情を強く揺さぶる言葉ほど、クリックされやすい
賛否が分かれる話題ほど、拡散されやすい
A/Bテストで「一番反応が取れる表現」が選ばれ続ける
その結果、
「人を分けて、怒りや不安を煽るメッセージ」
の方が、ビジネスとしては成功しやすい仕組みになってしまいました。
お金持ち
有名人
大きな実績を持つ人
こうした人たちが発信すると、その言葉はさらに重みを持ちます。
「この人が言うなら正しいに違いない」と、
中身よりも肩書きやステータスで判断してしまいやすくなります。
まさに「権力の魔力」です。
口先だけで大きな金額を動かすこともできる時代
「言葉が上手い人」の方が、注目とお金を集めやすい時代
だからこそ、なおさら、
口が上手い人には、少し距離を置いて見る
という意識が必要になってきているのだと思います。
では、どうやって自分を守ればいいのでしょうか。
私が意識しているのは、
言葉よりも、「振る舞い」という行動そのものを見ること
です。
挨拶の仕方
弱い立場の人への態度
約束の守り方
自分の失敗をどう扱うか
こうした、日常のごく小さな場面にこそ、
その人の本当の人間性が表れるように感じています。
お金・肩書き・フォロワー数・過去の実績などではなく、
身近で直接感じられる人柄を判断基準にする。
それだけでも、「われこそは正義」と名乗る声から、
少し距離を取れるようになってきます。
ここで一つ、はっきりさせておきたいことがあります。
私が疑いたいのは、「正義」という言葉そのものではありません。
優しさ
気遣い
思いやり
こうしたものは、私にとって、やはり大切な「良いもの」です。
ただ、世の中には、
「優しさも気遣いも思いやりも、どうせ裏がある」
「全部偽善だ。だから自分は冷たくていい」
といった形で、すべてを疑ってしまうことで、自分の冷酷さを正当化するやり方もあります。
本物の思いやりや、静かな善意まで
「どうせ嘘だ」「トリックだ」と切り捨ててしまえば、
何も信じられなくなっていきます。
その隙間に入り込んで、
「ほら、みんな偽善者だ。疑っている自分こそ正しい」
と名乗り出る“悪”も、たしかに存在し得ます。
だからこそ、ここで問題にしたいのは、
「われこそは正義」と名乗ることそのものではなく、
「断定して奪う」使い方
です。
自分こそが正しいと断定し、
他の考え方や感じ方、
そして誰かの「これはおかしい」という感覚まで奪ってしまうこと。
その「断定して奪う」あり方から、距離を置きたいのだと思います。
もう一つ、気になっていることがあります。
もし「正義なんて全部怪しい」とだけ言ってしまうと、
こんどは逆に、
「ほら、優しさも思いやりも全部偽善だ。
だから冷たくても、攻撃的でも、自分は間違っていない」
と、“悪い振る舞い”の側が、
本物の思いやりまでまとめて押し流してしまう危険もあります。
誰かを守ろうとする気持ち
弱い立場の人をかばう行動
あきらかにおかしい集団の暴走に「それは違う」と言うこと
こうしたものまで、「どうせきれいごと」「偽善」と切り捨てられてしまえば、
悪い方向に進む力を止めるものが、ほとんど残らなくなってしまいます。
とくに怖いのは、「集団の権力の『魔物』」です。
集団で建物を建てたり、何かを作り上げたりすることは、人間のすばらしい力
でも「思考の方向」を揃えるために集団が使われると、
権力の魔力が顔を出します
「みんなこう考えている」「これこそ正しい」と言われたとき、
そこに少しでも違和感があるなら、
本当にそうだろうか?
この方向に進んで、誰かが犠牲になっていないだろうか?
と、自分の感覚を確かめ直すことも、
ひとつの小さな「正義」だと思っています。
それは、派手に旗を振って戦う勇ましい正義ではなく、
集団の流れがおかしいと感じたときに、一歩立ち止まる勇気
「これはちょっと違う」と、心の中でブレーキをかける感覚
のような、ごく静かなものかもしれません。
でも、その静かなブレーキがまったく働かなくなったとき、
集団の権力の魔物は、いちばん暴れやすくなるのだろうと思います。
このサイトで私が大事にしたいのは、
「われこそは正義」とは逆方向の態度です。
ここに書いていることは、すべて「その時点での考え」であり、
同時に「その時点での仮説」でもあります。
そして、「私は間違っているかもしれない」という前提で置いています。
ここではっきりさせておきたいのは、
「私は間違っている」という前提は、責任逃れではない
ということです。
むしろその逆で、
「本当にそうだろうか?」と自分に問い続ける責任
違うと分かったときに、静かに修正していく責任
を、自分に課すための前提です。
科学の世界では、
いったん仮説を立てる
観察や実験を重ねる
合わなくなってきたら、仮説の方を修正する
というやり方をとります。
ここで言う「仮説」も、それとよく似た扱いにしたいと思っています。
「どうせ間違っているんだから何をしてもいい」という開き直りではなく、
自分の見方を絶対視しない
でも、考えること自体は放棄しない
そのための、小さなルールとしての「私は間違っている」です。
分断を煽る言葉に囲まれていると、
世界はどんどん息苦しく見えてきます。
どちらかの陣営に付かないと責められそう
間違った側に回るのが怖い
だから、とりあえず強い方・大きい方に付いておこう
そんな空気の中で生きていると、
心のどこかが、いつも緊張したままになります。
だからこそ、
「どちらの“正義”にも、少し距離を置いて眺めてみる」
という選択肢を、自分の中に持っておきたいと思っています。
すぐに結論を出さない
「今はこう感じている」というところまでで、一度止めておく
そのうえで、自分の目と感覚で確かめ続ける
それは、派手な正義の宣言とは違って、
とても地味で、ゆっくりとしたやり方かもしれません。
でも、その小さな距離感こそが、
これからの自分を守るための、ささやかな希望だと感じています。
この文章は、
「われこそは正義」という声から、少し距離をとってみるための、自分へのメモ
です。
未来の自分がこれを読み返したとき、
「あの頃の私は、こうやって“正義”の扱い方に悩んでいたんだな」
「今の自分は、そこからどう変わっただろう?」
と振り返るための、ひとつの目印になればいいなと思っています。
そしてもし、どこかで誰かがこの文章にたどり着いて、
「正義を名乗る声から、一歩だけ距離を置いてみてもいいかもしれない」
と感じるきっかけになったとしたら、
それはとてもありがたいことです。
絶望で終わらせないために。
ここに書くのは、いつも途中の考えであり、
更新されていく前提のひとつの仮説としての視点です。
これからも、
間違ったり、揺れたり、立ち止まったりしながら、
少しずつ、自分なりの距離感と希望を育てていけたらと思っています。