― お金に振り回されずに付き合っていくためのメモ ―
コンビニでペットボトルを1本買うとき。
家賃の引き落としメールを確認するとき。
ネットで何かを買うか迷って、カートに入れたり戻したりするとき。
どれも、「ここから、あそこへ、お金が動く」ことを
当たり前の前提として受け入れている場面だと思います。
たいていは、その場で「支払った」「受け取った」で完結します。
私自身も、いつもそんなに深く考えているわけではありません。
でも、ときどき気になることがあります。
さっきここで動いたお金は、このあとどこへ流れていくんだろう? ということです。
お店の売り上げになって、仕入れ代や家賃や光熱費に変わっていく。
誰かの給料や、ローンや税金の支払いにまわって、
さらに別の場所で、また誰かの「支払い」や「受け取り」になっていくのかもしれない。
そんなふうに考え始めると、一度動いたお金が、
見えない配線のように世界中を巡っているイメージが浮かびます。
とくに気になるのは、多くの人から少しずつ集められたお金が、
そのあとどこへ流れていくのか、という部分です。
税金や寄付、お布施のようなお金。
「みんなのために使われます」「良いことに使われます」と説明されることも多いけれど、
実際のところ、どこでどう配分され、何に使われているのかは、
一人ひとりの目からはほとんど見えません。
それぞれの思いや事情が込められたお金が、大きな流れの中にまとめられて、
どこか遠くで、別の「支払い」や「受け取り」に変わっていく。
そう考えると、お金の流れは、ますます巨大で複雑な
ひとつの「信仰システム」のようにも感じられます。
そして、その見えない流れ全体が、
「お金には価値がある」「お金は何かと交換できる」という前提の上に成り立っているのだと思うと——
どんなに別の強い信念や信仰を持っていたとしても、
お金の価値そのものを疑わずに生きている人が、ほとんどだと感じます。
どんなに別の強い信念や信仰を持っていたとしても、
お金の価値そのものを疑わずに生きている人が、ほとんどだと思います。
たとえば、「◯◯は絶対だ」「◯◯こそ最高だ」「◯◯は本当にすごい」と、
それぞれ違うものを強く信じていたとしても、
ほとんどの人は同時に、
「お金には価値がある」「お金は何かと交換できる」という前提も、ごく自然に受け入れています。
信じている対象はバラバラでも、
「お金には力がある」という点だけは、ほぼ共通の“土台”になっている。
その意味で、お金は、たくさんの信念や宗教をまたいで広がっている、
もうひとつの巨大な信仰のようにも見えてきます。
給料日を待つ。レジで財布やスマホを取り出す。
家賃や光熱費を支払う。そのどれもが、
「この紙や数字には価値がある」と、みんなで信じているからこそ成り立っている約束事です。
極端に言えば、
お金を信じていない人は、今の社会では生活に困る と言ってもいいかもしれません。
お金そのものを完全に信じていない人は、現代ではほぼ皆無に近い。
そう考えると、お金という仕組みは、
宗教を超えた宗教、「世界一の宗教:お金教」
と呼んでもいいくらいの影響力を、私たちの日常のすみずみにまで持っているように思います。
問題は、「お金教」を信じているかどうかではありません。
ほとんどの人は、すでに信じている側に立っています。
本当に難しいのは、ここからです。
「では、どうやってお金を得て、どう扱うのか?」という問いのほうです。
お金は必要だし、ないと困ります。
その一方で、心のどこかにずっと残り続けている思いがありました。
「結局、お金のため」
その一言で片づけられてしまうことが、どうしても嫌だったのです。
こういう感覚は、甘えだと思われるかもしれません。
みんな生きていくために、嫌なことも耐えながら、頑張ってお金を得ている。
その現実がある中で「お金のため、という言葉が嫌だ」と口にすること自体、
ずるいとか、きれいごとだと言われても仕方ない面もあると思います。
それでも、
お金さえ入ってくれば、どんな手段でもいいのか。
お金のために、何を犠牲にしているのか。
その問いかけ自体まで、封じてしまいたくはありませんでした。
気づかないうちに、お金のために大切な何かを少しずつ失っていることがあります。
時間
体調
家族や身近な人との関係
自分の中の小さな「これだけは大事にしたい」という感覚
そういったものを少しずつ引き換えにしていくと、だんだん余裕がなくなっていきます。
余裕がなくなれば、ささやかな気遣いや、思いやる気持ちも減っていきます。
すると、気づかないうちに、
「自分や自分が所属する集団さえ良ければそれでいい」
という状態になりやすくなります。
お客さんより売り上げが優先される。
部下の生活より、組織の数字が優先される。
他人の事情より、自分の立場が最優先される。
ときには、
「自分や家族が大変なのだから、
他の人のことは多少ないがしろにしても仕方ない」
という考え方にすり替わってしまうこともあります。
自分や家族を守りたい気持ち自体は、ごく自然なものです。
ただ、その理由を盾にして、
「だから他の人はどう扱ってもいい」 というところまで行ってしまうと、
気づかないうちに誰かを深く傷つけてしまうこともあるのだと思います。
そんな場面は、決して珍しいものではないのかもしれません。
かといって、
「お金が関わらない行動なら、何をしてもきれい」 というわけでもありません。
ボランティアや善意の行動も、
責任が伴っていなければ意味をなさなくなる ことがあります。
相手の状況を考えずに、自己満足だけを押しつけてしまう。
続けられない約束をして、そのまま放り出してしまう。
それは、お金のために何かを犠牲にするのとは、別のかたちで大切なものを傷つけることがあります。
ここで大事だと感じるのは、
責任と正義感は違う ということです。
分かりやすい例でいえば、価値に見合わないひどいサービスを受けたときのことがあります。
高いお金を払ったのに、あまりにお粗末だった。
明らかにおかしい対応をされた。
そんなときに、
「他の人が同じ目に遭わないように知らせたい」
という気持ちが湧き上がることがあります。
それ自体は、他の人の役に立つ、責任ある行動 にもつながり得ます。
実際に、事実を丁寧に伝えるレビューが、誰かの助けになることもあるからです。
ただ、ここで一線を越えてしまうと、
何でもかんでも感情に任せて裁くやり方 になってしまいます。
事実よりも感情が前に出る。
相手を徹底的に叩くことが目的になってしまう。
こうなると、それは「責任」ではなく、ただの感情のはけ口になってしまい、
誰のためにもならなくなることがあります。
お金のために動くときも、正義感で動くときも、
そこに「責任」という視点がないと、どこかで歪んだ形になりやすいのだと思います。
お金について考えるときに、もうひとつ厄介だと感じていることがあります。
それは、お金の多さと人間性や努力量が、必ずしもリンクしない ということです。
優しさや誠実さを大事にしている人が、必ずしも経済的に豊かとは限らない。
逆に、かなり乱暴なやり方をしていても、平然と大きなお金を動かしている人もいる。
もちろん、努力が実を結んで、お金という形で返ってくるケースもあります。
ただ、
「人間性が良いから必ず豊かになる」
「努力した分だけ必ず報われる」
とまでは言えない、という感覚も同時に残ります。
だからこそ、お金を軸に世界を見ていると、
どうしても理不尽さを感じやすくなる のだと思います。
それでも、お金がないと生きづらい社会で生きている。
このギャップが、「お金教」のややこしさの1つなのかもしれません。
頭では分かっています。
お金は単なる幻。
お金の価値を信じている人同士で成り立つ、便利な道具に過ぎない。
お金は、私たちの想像力の賜物で成り立っています。
「この紙には、これだけの価値がある」と皆が信じているからこそ、交換がスムーズにできる。
言ってしまえば、
お金はあってないようなもの です。
それでも現実には、お金に振り回されるのが人間でもあります。
同じお金でも、簡単に入ってきたものは、簡単に使って、簡単に出ていきやすい
苦労して得たお金は、使うときにも慎重になる
お金そのものは中立でも、そこに乗せる 感情や記憶 によって、扱い方が大きく変わってしまいます。
お金は万能ではありません。お金で買えないものも、たくさんあります。
それでも、
影響力という観点から見れば、無視できない
ほどの力を持っています。
「ただの道具」と分かっていても、気づかないうちに、
お金を使っているつもりが、お金に使われている側に回っていることも、多いのだと思います。
お金教の世界では、
「法に触れなければ何をしてもいい」
という考え方も、よく目にします。
たしかに、法律は大事なラインです。最低限、そこは守る必要があります。
でも、もし「法に触れなければOK」という基準だけで動き始めると、
どこかで自分の内側が、少しずつ摩耗していくように感じます。
法律的にはセーフ。
でも、自分の中ではアウトに感じること。
反対に、法律的にはグレーでも、
自分の中では「やりたくない」と感じること。
そういうものが、誰の心の中にも、きっとあるはずです。
お金に支配される人生と向き合うために、
ときどき自分に問いかけてみたいことがあります。
ひとつ目は、
「法に触れない前提で、自分が嫌なこと・やりたくないことを、
いくら手に入るならやるのか?」
例えば、
10万円なら絶対にやらないけれど、10億円と言われたら心が揺らぐとしたら、
そのあいだに、どんな感覚の違いがあるのか。
「このくらいなら、まだ自分を保てる」
「このラインを越えると、たとえ大金でも受け取りたくない」
その境界線を考えてみることで、
自分の価値観が少し輪郭を持ち始めます。
もうひとつは、逆側の問いです。
「何の問題もない状況で『お金をあげる』と言われたとき、
自分はそれを断れるのか?」
条件がよく分からないお金。
もらったら、その後にどんな期待がついてくるのか分からないお金。
そういうものを前にしたときに、「いらない」と言えるかどうか。
この2つの問いは、お金が「入ってくる」場面と「渡される」場面で、
自分がどこまで譲れるのか、どこから譲りたくないのかを知るヒントになるように思います。
お金教から完全に降りて、山奥で自給自足をするような生き方を選ばない限り、
私たちはこれからも、お金と付き合い続けていきます。
お金から完全に自由になることは、きっと簡単ではありません。
それでも、
お金に支配される人生と向き合う力
は、少しずつ手に入れていきたいと思っています。
お金に使われるのではなく、
お金を主体的に使う側でありたい。
そのためには、
「結局、お金のため」とすべてを片づけないこと。
法律だけでなく、自分の中のラインを意識しておくこと。
何を引き換えにするのか/しないのかを、自分で選び直すこと。
そういった小さな確認が、必要なのかもしれません。
お金は、ただの道具です。
ただ、その道具に、自分の生き方ごと乗っ取られてしまうか、
自分の価値観に沿って使っていくかで、同じ金額でも意味は大きく変わっていきます。
ここに書いたことも、「世界一の宗教:お金教」との付き合い方についての、
今の時点での小さなメモに過ぎません。
これからも、お金と距離を取り直しながら、
お金教に飲み込まれず、それでもお金と共に生きていくための方法を、
少しずつ探していきたいと思います。