気がつけば、暇を感じることがほとんどなくなりました。
仕事の合間にはスマホ。
移動中も、食事中でさえも、動画やSNSやニュースが、無限に「埋め草」を差し出してくれます。
現代は、あらゆるものが効率化されてきたはずなのに、
そのぶん空いたはずの時間を、そのまま余らせておくことが、どんどん難しくなっているのかもしれません。
今の世の中には、
エンタメ企業
SNSプラットフォーム
個人の配信者・クリエイター
まで含めて、「暇を持て余している人」をターゲットにしたサービスが溢れています。
彼らはみんな、私たちの「空いている時間」を奪い合っています。
私たちはその中から、
今日はこの動画を観て
明日はあの配信者を追いかけて
合間にタイムラインをひと通り眺めて
と、自分で選んでいるつもりで、
気づけば「暇つぶしのメニュー」のどれかを消費している。
そうやって毎日が埋まっていくうちに、
本当は「ただの空白」にすぎないはずの時間が、
いつの間にか「暇」という感覚ごと、
この世から消えてしまったかのように思えてきます。
「暇を持て余す」とは、
いっときでも「何もしない時間」が耐えられない、ということでもあります。
何もしていないと、不安になってくる
スマホを触っていないと、置いていかれる気がする
ぼんやりしている自分が、どこか悪いことをしているように感じる
そんな感覚を、私自身も何度も経験してきました。
もしかすると今は、
「『暇そのもの』よりも、『暇を感じてしまう自分』のほうが怖い。」
そんな時代なのかもしれません。
だからこそ、
「あえて」何もしない時間をつくることが、
ますます難しくなっているのだと思います。
あるとき、意図的に
スマホを別の部屋に置き
PCも閉じ
テレビも消して
ただ、何もしない時間を少しだけつくってみました。
最初の数分は、落ち着きません。
「何かしないと、もったいない気がする」
「せめて、ためになる音声くらい流しておく?」
そんな声が、頭の中でざわざわと騒ぎ始めます。
それでも、あえて何もしないでいると、
少しずつ、別のものが見えてきます。
近くで家事をしている人の気配
外を歩く人の足音
遠くから聞こえてくる子どもの声
一緒に暮らしている人の、いつもの小さな習慣
暇つぶしをしているあいだには聞こえてこなかった、
生活の音や、誰かの存在感が、だんだんと浮かび上がってきます。
私はもともと、「バックグラウンドを見る」習慣があります。
目の前の便利さだけではなく、その裏側で、
私の想像も及ばない技術で、建物や道路をつくり、修復してくれている人たち
水道・電気・通信など、生活に必要不可欠なインフラをつくり、管理し、整備してくれている人たち
日常で使うあらゆる「もの」そのものを、地道に作り出してくれている人たち
のことを、つい考えてしまいます。
私たちが当たり前のように使っている道具やサービスの多くは、
「仕入れて売る」だけで完結しているわけではありません。
そのずっと前の段階で、
材料を集め、試行錯誤し、形にしてくれている人たちがいるからこそ、
ようやく「当たり前の便利さ」が、日常の顔をしてそこに置かれています。
そういう人たちの仕事は、
多くの場合、スポットライトが当たることはありません。
SNSでバズることも、名前が拡散されることも、ほとんどないかもしれません。
それでも、私たちの生活の土台は、
そうした「バックグラウンド」で動いている無数の手によって、静かに支えられています。
一方で、世の中のお金の流れを眺めていると、
別の顔も見えてきます。
時間を埋めるためのコンテンツや、刺激的な言葉を提供している人たちには、
お金が流れやすく
有名になりやすく
もてはやされる機会も増えやすい
という現実があります。
それ自体を、完全に否定したいわけではありません。
私も、その恩恵を受けている一人です。
ただ、ときどき、こんなジレンマを感じます。
汗水たらして、社会の役に立つことをしている人たちよりも、
口先だけの派手なパフォーマンスのほうに、お金が集まりやすい場面が多すぎるのではないか、ということです。
もちろん、どちらが「正しい」「間違っている」と、
単純に白黒つけたいわけではありません。
それでも本音を言えば、
「実際にコツコツと行動している人たちにこそ、
本当はお金が入ってきてほしい」
そう思ってしまうことがあります。
多くの人に注目される人が「偉い」のではなく、
本当は、その逆側――
ほとんど注目されない場所で、淡々と支えてくれている人たちにこそ、
もっと目を向ける必要があるのではないか。
何もしない時間を持つようになってから、
そんな感覚が、以前よりもずっと強くなっていきました。
そう考えるようになってから、
「有名人」や「インフルエンサー」の見え方も、少しずつ変わってきました。
昔の私は、有名人がすぐそばを通るだけで、
人々と一緒にざわめき、
「見たい」「会いたい」「つながりたい」と心が騒いだこともあります。
有名人になって、尊敬を集めたい――
そんな気持ちが全くなかったとは、とても言えません。
けれど今は、その感覚がほとんどなくなりました。
有名人も同じ人間。
むしろ、どこかのイメージによって「つくられた人」である可能性も高く、
ややもすると、仮面をかぶって言葉巧みに操ろうとしているようにも見えてしまうことがあります。
それよりも今は、
「そこに確かに、一人の人間がいる」
という感覚のほうが、私の中ではずっと大きくなりました。
名前も知らない、すれ違っただけの人。
レジで黙々と働いている人。
道端でふと挨拶を交わした人。
そうした「無名の一人ひとり」のほうが、
今の私にとっては、はるかに尊敬できる、大切な存在に思えるようになってきたのです。
感動なんて、本当はテクニックでは生まれない。
そこに等身大の「誰か」がいて、
その人なりに日々を生きている――
ただ、それだけで十分なのだと感じることが増えました。
何もしない時間をつくることは、
ただ時間を空白にすることではありませんでした。
その空白の中で、
本当は誰に一番お世話になっているのか
どんな人に、自分の時間を返していきたいのか
本当に大切にしたい関係はどこにあるのか
が、少しずつ浮かび上がってくる時間でもあったのだと思います。
暇つぶしに時間を差し出していた頃には見えなかった
「自分の生活を支えてくれている人たち」の輪郭が、
ようやく見えてきた――そんな感覚に近いのだと思います。
だから今は、
すべての暇つぶしを否定するのではなく
ときどき、あえて「何もしない時間」をつくってみる
ことを、自分への小さな宿題のように続けています。
その時間は、
本当に大切だと思う人たちに、
自分の意識と時間を少し返していくための準備だと、今は感じています。