― 自分を「盛る」より、今ここにいる自分に「ありがとう」と言いたい ―
世の中には、
自信をつけよう
自己肯定感を高めよう
堂々としていよう
といったメッセージが、あふれています。
自信があれば、仕事もうまくいく。
人間関係もうまくいく。
自分の人生に、迷いがなくなる。
そんな空気に触れていると、
「自信がない自分」は、どこかダメなように感じてしまうことがあります。
でも、私は最近、こう思うようになりました。
自信があるかないかは、正直どちらでもいい。
むしろ「ない」と自覚しているくらいの方が、
まだ成長できる余地があって、健全なのかもしれない。
そもそも、本来の意味で考えれば、
「自信がまったくない」という状態は、
論理的には少し不思議です。
「自分には自信がない」と、はっきり言い切れる時点で、
「自信がないことに自信がある」という、
ちょっと奇妙な状態になってしまうからです。
「自信ゼロの人」がいるというより、
たいていの場合は、
うまくいかなかった記憶が強すぎる
他人の評価を基準にしすぎている
といった理由で、自分を見る目が厳しすぎるだけなのかもしれません。
「もうダメだ」と思う出来事も、いまは人生の一部になっている
私はこれまで何度も、数えきれないくらい、
「もうダメだ」
「絶対に無理だ」
「ここまでやってきたのは全部無駄だったんじゃないか」
と感じるような事態をくり返してきました。
何度乗り越えても、またしばらくすると、
似たような波が形を変えてやってくる。
そのたびに、
やり方が根本的に間違っていたのか?
それとも、諦めずに続けていればよかったのか?
そのどちらなのかを、ずっと試行錯誤してきたように思います。
途中から、「これはたぶん、一生はっきりした正解が出ない種類の問いなんだろうな」と
うすうす分かってきたところもあります。
それでも、
> 答えがない、というのが答えなのかもしれない。
と感じながら、
同じ問いを角度を変えながら、何度も自問自答してきました。
不思議なことに、そのなかで
「もっと自信をつけなきゃ」とは、あまり考えませんでした。
むしろ、
自分が間違っていた部分はどこだったのか
何を変えたら、同じつまずき方をしなくなるのか
そんなことばかりを考えてきた気がします。
今になって振り返ると、
実は「向いていないこと」に全力投球していただけの時期も
たくさんあったのだと思います。
今となっては、少し笑ってしまうような選択もありますが、
当時の自分はどれも本気でした。
それでも、向いていなかったことに向かっていた時間も含めて、
そこに積み重なっていた「小さな努力」そのものは、
まるごと無駄になったわけではないと感じています。
努力だけは、基本的に嘘をつかない——今は、そんなふうに思っています。
「こんなに努力してきたのに…!」と、
報われなさへの不満として振りかざしたいわけではなく、
数字で証明するためでもなく
誰かに見せるためでもなく
「あのときの自分は、自分なりにできる範囲でちゃんとやっていた」という感覚が、
後になって静かな裏付けとして、
にじむように自分の中に残っていくことがある、という意味に近いです。
今では、「もうダメだ」と感じるような事態も、
空気のように、人生の一部になりつつあります。
振り返ってみると、
そういう出来事もひっくるめて、
自分自身をゆっくりと練り上げていくための、
ひとつひとつの材料だったのかもしれません。
自信を「つける」ことより、自分に嘘をつかないこと
自信とは、本来は「自分を信じること」のはずです。
大きな声で話すことでもなく
いつも堂々として見せることでもなく
実績を並べて自分を飾ることでもなく
もっと静かで、内側の感覚に近いもの。
自信がある、ということも、
本来は「いつも自分を大きく見せること」とは違うはずです。
アメリカの成功物語でよく見かけるような、
とにかく自分を推し続けるパフォーマンス
「自分は最高だ」「自分は特別だ」と言い続けるスタイル
は、一見すると自信にあふれているように見えますが、
それが行きすぎると、
自分をよく見せることが目的になってしまったり
目の前の人の気持ちや事情が見えにくくなってしまったり
という危うさもあるように感じます。
一方で、「自信がありません」と言いながら、
必要以上に卑屈になってしまう形もあります。
どうせ自分なんて…と、先に自分を下げておくことで傷つかないようにしたり
「自信がない」を言い訳にして、
大切な誰かや小さな約束を後回しにしてしまったり
そうやって自分を守ろうとするあまり、
かえって本当に大切にしたいものを、
ないがしろにしてしまうこともあります。
どちらの極端に寄りすぎても、
自分を丁寧に扱うことも
目の前の相手を丁寧に扱うことも
かえって難しくなってしまうのかもしれません。
だからこそ私は、
外に向けた「自信アピール」でもなく
自分を守るための「卑屈さ」でもなく
自分に嘘をつかずに生きようとする態度そのものを、
静かに信じてあげたいと感じています。
自分に嘘をつかない。
自分で自分を裏切らない。
そうありたいと願いながら、
日々の小さな選択を重ねていくことが、
「自分を信じる」に近いのではないかと思います。
自信は、本来 外側から飾り立てるものではなく、
内側から少しずつ湧いてくるものだと思っています。
時間はかかるけれど、その分、いったん育ったものは崩れにくい。
だから私は、
信頼を得るための「分かりやすい実績」を無理につくる必要もない
虚勢を張る必要もない
わざわざ大きな声で、自分をすごく見せる必要もない
と感じています。
世の中には、自己啓発本やセミナーが山ほどあります。
もちろん、それによって助けられる人もいるし、
全部が悪いと言いたいわけではありません。
ただ、私自身は、
「一般的な自己啓発」は、必ずしも必要ではないと感じています。
自分自身を成長させるための素材は、
本当は、もっと身近なところにいくらでも転がっているからです。
たとえば、
今日、自分が選んだひと言
誰かを傷つけてしまったときの後味
うまくいかなかったときの悔しさ
うまくいったときに、誰のおかげでそうなったかを振り返ること
これらはすべて、
自分自身を確認し、認識し、認めていくための「生の教材」です。
良い自分も、良くない自分も、両方まとめて引き受ける
自分を認める、と聞くと、
自分の良いところを数えよう
自信を持てるポイントを見つけよう
という方向に進みやすいですが、
それだけでは、どこか片手落ちのような気がします。
現実には、
無意識のうちに、人を傷つけてしまったこと
自分の弱さから、目をそらしてしまったこと
面倒で、見なかったことにした出来事
そういったものも、たくさん抱えながら生きています。
> 良いところだけを見て慰めるのではなく、
> 「あれは本当に良くなかった」と認めて、
> もう二度と同じことを繰り返さないように、静かに懺悔していく。
そのプロセスもまた、
自分をちゃんと認識し、受け入れていくために必要なのだと思います。
ここで言う「自分を認める」は、
なんでもかんでも自分を許して甘やかすこととも違うし、
ひたすら厳しくして、自分を責め立てることとも違います。
やってしまったことは、ちゃんとやってしまったこととして見る
それでも、「だから自分はダメだ」と切り捨てず、
次は少しでもマシな選択をしようと決め直す
その地味な往復運動を続けていく感じに近いのかもしれません。
良いことか悪いことかだけで判別せず、
起きた出来事をひとつずつ丁寧に確認していく。
時間をかけて、労苦が一本一本のシワに刻み込まれていくごとに、
少しずつ味わい深い人間に育っていく――
そんなイメージに近いかもしれません。
自分へのこだわりを、完全に捨ててしまう必要はないと思っています。
時には状況に合わせて妥協したり、
折り合いをつけたりしなければならない場面もあるけれど、
それでもどこかで、
「私は〇〇である」
と、静かに確認しておきたい。
ここでいう「〇〇」は、
「こうなりたい」という願望ではなく、
今の自分が大切にしている価値観
これだけは手放したくないという小さな芯
を、自分自身に向かって再確認するための言葉です。
肩書きや評価ではなく、
「自分はこう在りたい」と思っている基準を
ときどき点検しておくこと。
それは、外から足す自信ではなく、
内側に残しておきたい自分への信頼に近い気がします。
私たちは、
これから先の人生、ずっと自分自身と付き合っていきます。
けれど、日々変化をともなう自分自身を、
一生かけても完全に理解しきることは、おそらく不可能です。
それでも、「理解しよう」と試み続ける心構え自体が、
すこしずつ自分への信頼を育てていくのかもしれません。
「私はこういうところがあるんだな」と認めたり、
「ここは本当に気をつけないといけないな」と静かに反省したりしながら、
それでも最終的には、
一生付き合っていく相手としての自分
何度も失敗しながら、それでも立ち上がってきた自分
と、少しずつ仲良くなっていけたらいい。
ここで書いている「自分に感謝する」「自分と仲良くしていく」という感覚は、
いわゆるナルシスト的な「自分大好き」とは少し違います。
ナルシスト的な自己愛は、
自分は特別だと思いたい
他の人より上に立っていたい
都合の悪い失敗や弱さは、できるだけ見ないようにしたい
という気持ちがセットになっていることが多い気がします。
その結果、
他人は「自分を持ち上げてくれる存在」や「踏み台」のように扱われやすく、
相手の気持ちや事情よりも、「自分がどう見えるか」が最優先になってしまうこともあります。
一方で、ここで目指しているのは、
失敗も弱さも含めて、いったんはちゃんと事実として見つめること。
そのうえで、「それでもここまで生きてきた自分」に
静かに「ありがとう」と言ってあげること。
です。
自分だけを特別扱いするのではなく、
「自分も、他の誰かと同じように、一人の人間にすぎない」と感じながら、
自分にも
そして他の人にも
できるだけ誠実であろうとするための、
土台としての感謝に近いのかもしれません。
本当に自分を大事にしようとすると、
「自分さえよければいい」ではなく
「相手にも相手の物語があるよね」と感じられる余白
が、少しずつ育ってきます。
自分を丁寧に扱おうとする姿勢は、
他者を丁寧に扱おうとする姿勢にもつながっていく。
ここが、ナルシスト的な自己愛との
いちばん大きな違いなのだと思っています。
良いところ
情けないところ
誰かを助けられた瞬間
誰かを傷つけてしまった瞬間
それらすべてと向き合ったうえで、
それでも最後には、こんなふうに感じていたいと思います。
これまで数えきれないくらい失敗してきて、
そのたびに自信をなくしてきたところもあります。
けれど、今になってみると、
その全部を含めて「ありがたかった」と感じています。
あの失敗がなければ、あの後悔がなければ、
今ここにいる自分はきっと存在しえなかったからです。
不器用なところも含めて、
ここまで生きてきた自分に、
「よくやってきたね」と、静かに感謝したい。
ここで言う「感謝」は、
外に向かって「ありがとうございます」と言う前に、
自分がここまで生きてこられたこと
出会ってくれた人たち
日々のささやかな恵み
それらを、全身で感じ取ろうとする姿勢に近いのかもしれません。
大きな声で自分を褒めたたえる必要はありません。
ただ、今日もここにいられることが、どれほどの偶然と支えで成り立っているのかを、
ときどき思い出してみるだけでいい。
自信があるかないかは、揺れやすいものです。
うまくいっているときは、少し増える
失敗が続くと、あっという間に減ってしまう
そんな不安定なものを土台にするよりも、
今日もここにいられること
ここまでなんとかたどり着けたこと
それ自体に「ありがとう」と感じられる感覚を、
静かに育てていきたいと思っています。
自信を盛ろうとするより、
感謝を土台にして生きる方が、
長い目で見て、自分にとって楽なのかもしれません。
ここに書いてあることは、すべてその時点での仮説です。
将来「間違っていた」と気づいたら、また書き直していきます。
それでも今日は、
大きな自信を求めるより、
静かな感謝を土台にして、生きていきたいと感じています。