― ここだけで揺れながら書いていくためのメモ ―
正直に言えば、私は「発信しなくても」すでに生活を楽しめています。
身近な人たちとの時間
日々の小さな出来事
自分なりのペースで過ぎていく一日一日
それだけで、十分に満ちている瞬間も多いです。
だからこそ、ふと疑問が浮かびます。
わざわざ外に向かって何かを発信する必要は、本当にあるのだろうか?
発信しなくても成り立っている暮らしがある。
そこに、あえて“外”という要素を持ち込むこと自体が、
少し不自然なことにも思えてしまうのです。
発信について考えるとき、いつも頭のどこかにあるのが、
発信することは、本質から外れていくことになるのではないか?
という感覚です。
どんなに「利害関係はない」と言ってみても
どんなに「ありのままを出します」と宣言してみても
外に向かって何かを書いた瞬間に、
「外部を意識すること」からは逃れられなくなります。
たとえば、家で一緒に暮らしている猫たちのことがあります。
毎日いっしょに過ごしているだけで、自然と「ありがとう」という気持ちになるような、愛しい存在です。
その日常を、「せっかくだから発信してみようか」と考える瞬間が、ふと訪れることがあります。
でも、その瞬間から、少しずつ何かが変わり始めます。
「どう撮れば、もっと可愛く見えるだろう」
「どんな言葉を添えれば、より伝わりやすいだろう」
本当は、そこにいてくれるだけで十分ありがたいのに、
気づけば「どう表現するか」「どう見せるか」という方向に、
意識が少しずつずれていってしまう。
もし本気でそれをすべて発信しようとすれば、
それだけで膨大な量になるはずです。
それくらい、日常には小さな出来事や感謝したくなる瞬間が、
毎日のように発生しているからです。
だから私は、ときどき思います。
> こんなふうに本質から少しずつ外れていくくらいなら、
> わざわざ外に出さなくてもいいのではないか。
発信しないことを選ぶのは、
その瞬間の「ありがたさ」を、外ではなく自分の中に
そっと置いておきたいから、という理由もあります。
発信をするということは、外部を意識することからは避けられません。
誰かにとってプラスになればいい
同じようなことで悩んでいる人の助けになればいい
そう願うほど、同じぶんだけ、
誰かの価値観に触れてしまうかもしれない
別の誰かにとっては「余計なお世話」かもしれない
という反発の可能性も同時に生まれてしまいます。
お金が絡むと、そのズレはさらに大きくなります。
再生回数
フォロワー
いいね
登録者数
どんなに「数字だけが目的ではない」と言ってみても、
お金や評価がつながった瞬間に、
数字から完全に自由でいることは、ほぼ不可能に近くなります。
発信に数字が絡んでくると、
もうひとつのジレンマが生まれます。
数字が増えれば増えるほど、
一人ひとりが「ただの数字」に見えやすくなってしまう。
フォロワーが1人増える
再生回数が1回増える
「いいね」が1つ増える
画面上では、どれも「+1」という、とても小さな変化に見えます。
でも、本当はその「1」の向こう側に、
日々を生きている一人の人間がいます。
仕事に行く前に、ふと開いた画面で見た人かもしれない
夜、眠れないときに、たまたまたどり着いた人かもしれない
何かに悩んでいる途中で、立ち寄った人かもしれない
有名になればなるほど、
すべての人には向き合えなくなるのは当然です。
全員のコメントに返事はできない
全員の期待に応えることもできない
その一方で、有名になるほど、
人は「色眼鏡」で見られるようになり、
本音で関われる相手は減っていき、
孤独さが増していく面もあるように思います。
有名でなくなったとき、
周りに何人残るのだろうか。
かといって、
無名のままで、本当に影響力は出せるのだろうか。
という問いも消えません。
数字に近づくほど、人が数字に見えてくる。
数字から離れようとすると、「影響力はどうするのか?」という問いが立ち上がる。
そのあいだで揺れるのも、ひとつのジレンマです。
名前を出さずに発信する人もいます。
「名前なんてなくていい」と言いながら、
自己主張だけがどんどん強くなっていくこともあります。
もちろん、匿名でいること自体が悪いわけではありません。
立場や安全を守るために、名前を出せない人もいる
実名では言えないからこそ、正直に書けることもある
一方で、匿名という安全圏に隠れたまま、
自分は安全なところから、好き勝手に人を傷つけてもいいものなのか?
という問いは、消えないまま残ります。
相手の生活に直接責任を取らなくてもいい
相手の表情も、声の震えも見えない
そんな環境の中で、
少しずつ良心の呵責が麻痺していくことも、
珍しいことではないのかもしれません。
もしかすると、深く考えない方が、
発信はスピードアップするのかもしれません。
思ったことをすぐ出す
流れのままに乗る
成果につながれば、それでいい
その方が、結果として数字になりやすいことも多いはずです。
もしかすると、今の時代は、
> あまり深く考えずに、
> 自分の言葉が誰かにどう届くかという責任も、あまり気にしない人
のほうが、うまくいきやすいのかもしれません。
そのほうが、迷いなく数を出せるし、
スピード感もあって、結果にもつながりやすいのでしょう。
それでも私は、その時代の空気に、自分を合わせたいとは思えません。
「この言葉が、見知らぬ誰かの一日に当たるかもしれない」という感覚や、
「自分の発信にも、少しは責任がある」という重さを、
まるごと手放してしまうことには、どうしても抵抗があります。
その感覚は、ときどき自分を苦しくさせることもあるけれど、
同時に、自分が自分でいるための、
最後の細い糸のようなものでもあると感じています。
逆に、あれこれ考えすぎると、
「重い」と敬遠されてしまうかもしれない
未整理のものを出したくない気持ちが強くなりすぎて、
手が止まってしまうこともある
そんなことは、考えなくても普通に想像がつきます。
「そんなに考えなくてもいいのに」と、
自分で自分に言いたくなる瞬間もあります。
それでも、考えてしまう。
考えてしまうからこそ、発信に躊躇する。
そのクセも含めて、私自身なのだと思います。
ここまで考えたうえで、
それでも「発信していこう」と決めるのは、
正直、勇気なしではとてもできないことでした。
誤解されるかもしれない
反発されるかもしれない
「重い」と言われるかもしれない
そうした可能性を全部引き受けても、
それでも置いておきたい言葉が、少しだけ残ったからです。
まずは、自分を見つめ返すために。
そして、もしかすると、
どこかで誰か一人の
「何かのきっかけ」になるかもしれないから。
そのくらいの、ささやかな期待だけを持って、
ここに言葉を置いていこうと思いました。
何かを伝えるということは、
同時に、
誤解が生じる可能性を、まるごと引き受けること
でもあるのだと思います。
すべての前提を説明することはできない
すべての人に分かってもらうこともできない
だからこそ、
ここに書いていることは、そのときの考えであり、仮説です。
間違っていたと気づいたら、静かに書き換えていきます。
という前提を、自分に言い聞かせながら、
発信していくしかありません。
発信することは、今でも少し怖いです。
何も言わなければ、楽な部分もある
何かを言えば、何かは必ず伝わりきらない
そのジレンマは、たぶん、完全には消えません。
それでも私は、
まずは自分のために、そしてどこかの誰か一人のために、
少しずつ言葉を置いてみようと思います。
今日も発信のジレンマを抱えながら発信をしていく。
ここだけで。
このページは、そのための、小さな出発点として置いておきます。