匿名性には、たしかにメリットがあります。
普段なら言いにくいことも言える。
誰かに気を使わなくていい。
顔色をうかがわずに、本音だけを置いていける。
だから、匿名の場は「逃げ場」になり得る。
息をつける場所にもなり得る。
ただし、それは 管理がしっかりしている限り です。
そしてもう一つ、匿名性は便利であるほど、怖い側面が見えにくくなります。
匿名性は、両刃の剣です。
いちばん怖いのは、匿名で発言するとき、こちらが「何かを引き換えにしている」ことに気づきにくいところです。
お金や時間のように目に見えるものではない。
だから、失っていることにも気づきにくい。
引き換えにしているのは、たとえば――
信頼。
安心感。
責任感。
言葉の重み。
そして、相手の人間性。
匿名で、誰かを名指しで批判する。
それはつまり、世界にこう宣言しているのに近い。
「名指しで攻撃していい世界を選びます」
自分が匿名性を利用できるなら、他の人も利用できる。
自分が誰かを名指しで批判できるなら、自分も名指しで批判され得る。
それが相手の知らない他人なら、まだ現実感は薄いかもしれません。
でも、それがもし、身近な人だったらどうでしょう。
同僚。親戚。兄弟。友達。
信頼している相手。尊敬している相手。
「もしかしたら、あの人が書いているかもしれない」
「もしかしたら、私のことが書かれているかもしれない」
この“もしかしたら”が、じわじわ効いてきます。
確証がないのに、疑いだけが育つ。
疑いが育つほど、世界はギスギスしていく。
そして気づくと、誰も信じられなくなる。
誰も信じられない世界で生きていく孤独。
目を背けて、誤魔化して、生きるしかない生活。
それはやがて、「自分自身への不信」にもつながります。
本当の自分は、本来こんな人間だったのか?
私は、誰なのか?
何を大切にしていたのか?
匿名の場で言葉が荒れるほど、
現実の人間関係にも、静かに亀裂が増えていく。
ここで、もう一つ大事なことがあります。
「自己責任」や「自業自得」という言葉で、すべてが片づくのか。
管理者の責任はないのか。
匿名性は、設計次第で、救いにも毒にもなります。
管理が緩ければ、言葉の自由は“言葉の暴走”に変わる。
そして暴走が当たり前になると、個人の努力だけでは止めにくくなる。
だからこそ、私は思います。
歯止めのきかない言葉の自由を与えられた私たちに、最後に残された自由があるとしたら。
それは、選べる自由です。
書けるから書く、ではなく。
言えるから言う、ではなく。
「この言葉を置いたあと、私はどんな世界を選ぶことになるのか」
それを一拍だけ考えて、選ぶ自由。
匿名性は、使い方次第で、人を救える。
でも、使い方次第で、人を孤独にする。
だから私は、匿名であっても、できる限りこうしたい。
名前があるつもりで、言葉を選ぶ。
相手を“人”として扱う線だけは越えない。
そして、本当に伝えたい相手が身近な人なら、できる限り直接、言い合える関係を目指す。
匿名だからこそ、世界は簡単に冷える。
でも、匿名だからこそ、世界は静かにあたため直せる。
結局、最後に残るのは――
私たちが、どちらを選ぶかです。