「私」は一つなのか。
それとも無数の「私」の、仮の呼び名なのか。そんな思考遊戯。
ある日、A男の中で、不思議なことが起きた。
声が聞こえてくるのだ。
しかも一つではない。いくつも、いくつも。
「私は無力です」
「私も無力です」
「私も、私だけでは何もできません」
「私も考えることができません」
「私もできません」
「私も……できません」
同じ調子の声が、重なって押し寄せる。
A男は、気が狂いそうになった。
とうとうA男は、カウンセリングを受けることにした。
先生は、穏やかに言った。
「どこからか声が聞こえてくる、という相談は珍しくありません」
「それで――あなたは、どれがあなた自身の声だと思いますか?」
A男は答えた。
「もちろん、全部です」
「でも私は無力だとは思いません。考えることもできますし、こうして先生と話すこともできます」
先生は頷いた。
「なるほど。ではそれは、あなたの無意識から出ている声なのかもしれませんね」
A男は首を振った。
「いえ。無意識の声ではないと思います」
「これは全部、私自身の声だと、私には分かるんです」
先生は少しだけ表情を変えた。
「では……いったい何なのでしょう?」
A男は、答えを用意していたかのように言った。
「神経細胞です」
「私の中にある、神経細胞の一つ一つが発している言葉なんだと思います」
先生は一瞬、言葉に詰まった。
そして、ようやく理解したように頷いた。
A男は続けた。
「細胞の一つ一つ、どれをとっても私です」
「でも、それらは一つだけでは何もできない」
「考えられないし、歩けないし、話せない」
「だから彼らは言うんです。“私は無力だ”って」
先生は慎重に質問した。
「なるほど……」
「では、あなたはそれらの集合体というわけですね」
「今、ここで話しているあなたは、その集合体として話しておられるのですか?」
A男はすぐに答えた。
「そうなんです。私の悩みはまさにそこです」
「聞こえてくる声は問題じゃない」
「問題は、今こうして話している“私”が、誰なのかということなんです」
「それを考えると、夜も眠れない」
「先生、どうにかしてください」
先生は、よくある結論を丁寧に差し出した。
「あなたはあなたですよ」
「それ以外の何者でもありません」
「……それでも納得できませんか?」
A男は、静かに言った。
「その言葉で納得できるなら、ここに来ていません」
先生は少し黙り、そして仕事の顔に戻った。
「分かりました。お薬を出しておきましょう」
「これで、今日からよく眠れますよ」
A男は薬袋を受け取り、立ち上がった。
ドアノブに手をかけた瞬間、
また声がした。
「私も無力です」
「私もです」
「私も……」
だが今回は、少し違った。
その声は、悲鳴ではなく、報告のようだった。
まるで「私」を構成する部品たちが、淡々と状況を共有しているような。
A男は、廊下で立ち止まった。
ふと、思った。
もしこの薬で眠れるようになったとして、
それは誰が眠るのだろう。
声の一つ一つか。
それとも、集合体としての私か。
それとも――ただ、体という装置か。
A男は小さく笑った。
「……結局、眠れないかもしれないな」
そして、薬袋を握りしめたまま、外へ出た。
―――――
「私」という問題を考えるとき、
「何らかの集まり」と捉えるのは、いわゆるカテゴリー錯誤に近いのかもしれない。
言葉と世界を混同しないためには、有効な見方でもある。
スマートフォンを思い浮かべれば分かりやすい。
部品だけを机に並べても、それはスマートフォンとは呼びにくい。
けれど、どこか一部が壊れていても、機能する限り、それはスマートフォンだと言える。
機能しなくなったとき、「スマートフォンだった」あるいは「使えないスマートフォン」になる。
では人間はどうだろう。
もし私が私を認識できなくなったとして――
例えば植物状態になったとしても、それは「私」なのだろうか。
そう考えると、「私」とは、内側にある何かというより、
他人が私を私として扱うための目印に近いのかもしれない。
けれど、目印だとしたら――
私という存在は、いったいどこにあるのだろう。
厳密に言えば、私は「私」とは言えないのかもしれない。
それでも、私が「私だ」と思う限り、
その思いそのものが、今日の私を成立させているのかもしれない。
あなたが「私」と呼んでいるものは、
どこにあるのか。