忘れられるのは不幸じゃない。忘れられることで守られる構造がある――裏思考遊戯。
都会の喧騒の中で、A男は静かに生きていた。
毎日同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じ仕事をこなし、同じ顔で帰る。
目立たず、揉めず、触れず、触れられず。
A男は「迷惑をかけない人」だった。
ある朝、いつも通りオフィスに入ると、A男の席がなかった。
机も椅子も、私物も、名札も。
そこだけが、最初から空白だったみたいに整っていた。
A男は上司のB男に声をかけた。
「すみません。僕の席が…」
B男は眉を寄せた。
「君は誰だ?」
冗談だと思って笑おうとしたが、笑えなかった。
B男の目には、本気の無関心があった。
A男は社員証を見せた。
B男は受け取って、少しだけ眺め、返した。
「こんな社員証、作ろうと思えば作れる。
うちはセキュリティが厳しいんだ。帰ってくれ」
周りの同僚も同じ顔をした。
“知らない人がいる”という顔。
“面倒が増える”という顔。
A男は自分のデータが残っているはずだと思って、総務へ行った。
名簿を見せてもらった。
A男の名前はなかった。
空欄があるわけでもない。
最初から、いなかった。
家に戻ると、さらに衝撃が待っていた。
玄関の鍵が開かない。
インターホンを押すと、見知らぬ女性が出た。
「どちらさまですか?」
妻だった。
声も、目も、表情も妻なのに――妻はA男を知らなかった。
子どもも、A男を見て泣いた。
警戒の泣き方をした。
「あなた、何の用ですか。ここに住んでいた覚えはありません」
A男は言葉が出なかった。
“覚えていない”のではない。
“最初からいない”扱いだった。
A男は街へ出た。
駅前、コンビニ、行きつけの店、病院。
どこへ行っても、A男は「初めまして」だった。
夜、公園のベンチに座っていると、老人が隣に座った。
老人はA男を見て、静かに言った。
「君は今、忘れられているね」
A男は驚いて、老人を見た。
「……あなたは、僕が見えるんですか」
老人はうなずいた。
「見えるとも。
ただし、見えることと、覚えていることは別だ」
A男は混乱した。
「意味が分かりません。
誰も僕を覚えていない。
僕は一体、何だったんですか」
老人は少しだけ笑った。
「君は、ずっと“迷惑をかけない人”だったね」
A男はうなずいた。
「そうしてきました。
人に迷惑をかけないように、静かに…」
老人は言った。
「それは、君の善意だ。
だが裏側では、社会にとって都合がいい」
A男は眉をひそめた。
老人は続けた。
「君が目立たないほど、誰も責任を負わなくていい。
君が声を上げないほど、誰も耳を塞がなくていい。
君が要求しないほど、誰も与えなくていい」
A男の胸に、冷たいものが落ちた。
老人はさらに言った。
「君が消えたのは、事故じゃない。
“忘れられる席”に座らされていた者が、
その席ごと撤去されただけだ」
A男は息をのんだ。
「じゃあ…僕は…」
老人は穏やかに言った。
「君は、社会にとって“いなくても困らない人”になっていた。
そしてそれは、君が悪いわけじゃない。
ただ、そういう形が出来上がっていた」
A男はベンチの下の地面を見た。
そこに自分の影があるか確かめるみたいに。
影は、あった。
なのに世界は、影ごと無視していた。
老人は最後に問いを置いた。
「忘れられるのは恐ろしいかい。
それとも、恐ろしいのは――
忘れられる形に自分を整えてしまうことかい」
翌朝、A男は新しい名前を名乗った。
新しい生活を始めるためではない。
古い自分を捨てるためでもない。
“忘れられても困る自分”を作るために、動き出すことにした。
さて、あなたはどうだろうか。
あなたの中に「忘れられる席」はないだろうか。
それは自由か。救いか。
それとも、責任を回収されないための裏側の装置か。
ここは、この話の裏側を言う場所だ。
「忘れられる」は、個人の悲劇に見える。
だが裏側では、構造の話になる。
人は突然消えない。
“消えても問題が起きない形”に、少しずつ整えられていく。
迷惑をかけない
主張しない
要求しない
波風を立てない
いなくても回る役割に甘んじる
これらは美徳の顔をしている。
だが裏側では、責任を発生させない技術にもなる。
責任が発生しないなら、誰も守らない。
守らないなら、誰も覚えない。
覚えないなら、消えても困らない。
忘れられるのが不幸じゃない。忘れられても困らない形が完成するのが怖い。
裏の問いは一つ。
自分は「優しい人」になっているのか。
それとも「忘れられても良い人」に整えられていないか。