「できる限りやった」──その言葉が、正しさを“成立させてしまう”。道徳と結果をめぐる思考遊戯。
A子は、衝動に支配されていた。
いったん衝動が起こると、抑えきれなくなるのだ。
だからA子は、抑えるために苦しみ悩み抜いた。
深呼吸。メモ。行動計画。
衝動が来たときの逃げ道を先に作り、環境を変え、約束を立てた。
お金を持たない。連絡先を消す。時間帯をずらす。
「今日だけは大丈夫」と思える仕組みを、何重にも重ねた。
そのうち、A子の中に別の感情が育っていった。
「こんなに頑張っている私」
という、手触りのある自負だった。
ところが、それでも、つい衝動に突き動かされてしまう日があった。
一度だけ。ほんの少しだけ。そう言い訳しながら、A子の手は止まらない。
事が済んだあと、A子は静かに思った。
「私は十分に、できる限りのことをした。だから、誰から責められることもないわよね」
まるで、努力そのものが判決を変えるかのように。
まるで、苦しんだ量が免罪符になるかのように。
A子は、目の前に横たわる死体を見て、頷きながら微笑んでいた。
「十分にできることをした」という感覚は、本人を救う。だが、それがそのまま「許される」に直結するとは限らない。何を“できる限り”やったのかで意味が変わるし、起きた結果の重さもまた無視できないからである。
一方で、結果については別の見方もある。人が本当に望んでいるのは、しばしば「行為そのもの」ではなく、その奥にある目的だったりする。
たとえば、母親に「定期的に手紙を書く」と約束したとしよう。手紙を送れなかったことが、必ずしも「様子を知らせる」という約束の破綻に直結するとは限らない。仮に電話を直接したなら、かえって喜ばれるかもしれない。ここでは母親の望みは「手紙」よりも「無事を知ること」にある可能性が高いからだ。
つまり問うべきは、「望まれる結果とは何か?」なのかもしれない。もっとも、それが自分自身の望む結果と一致するとは限らない。
ただし、いつも代替で済むわけでもない。結果のためなら何をしてもよい、となった瞬間に、私たちは別の形で“正しさ”を失い始める。
努力は、道徳を強くするのか。
それとも、道徳をねじ曲げるための材料になるのか。