無料は優しさに見える。だが、誰かの負担を“見えなくする力”でもある。無料をめぐる思考遊戯。
Aは無料が好きだった。
「無料でなければ許せない」
それは、Aの好みというより、ポリシーだった。
払うという行為そのものが、どこか負けのように感じられた。
そして、ついにAが待ち焦がれた時代が訪れた。
そこは、ほとんどが無料で利用できる世界だった。
スマホは無料で手に入り、通信も無料。
家も無料で住めて、車さえ無料で持てた。
もちろん条件はあった。
広告が表示されること。
そして、どのサービスも物も「上等ではない」こと。
最上級を望むなら、上のランクを買えばいい。
無料は、あくまで無料の品質で与えられる。
食べ物も無料で手に入った。
提供主にとっては、本来捨てていたものに、安価ながら国から補助が出る。
形が崩れ、規格外で、売り物にならない。だが、食べられないわけではない。
Aにとっては十分だった。
ネットも無料だった。
起動のたびに広告が出て、読み込みは遅い。
それでもAは気にしなかった。
待てばいい。無料なのだから。
医療も無料だった。
精度は少し落ちる。診断はテンプレに寄り、治療は平均化される。
だが、無料で受けられるなら、Aは納得した。
学ぶこともできた。
図書館で録画教材を借りればよい。
これもすべて、広告が煩わしいと思う者や、上のランクに金を払う者がいるから成り立っていた。
Aは満足していた。
いや、最初はそうだった。
やがてAには欲が出た。
もっと満足したい。
もっと快適に、もっと速く、もっと自分好みに。
だが、無料のポリシーは譲れなかった。
だからAは、現実よりもネットの中に長く滞在するようになった。
ネットなら、時間をかけて辛抱強く探せば、無料でも“より良いもの”が見つかる。
広告の海を泳ぎ、注意深く選び、最小の不快で最大の満足を得る。
それがAの才能になった。
そして、Aのような人が増えていった。
無料に慣れた人々は、有料で払っていた人々を見て思う。
「なんで、払ってるの?」
「待てばいいのに」
「無料で十分じゃない?」
有料に金を払っていた人々も、気づいてしまった。
払うことが、馬鹿らしく見え始めたのだ。
やがて、世の中の経済活動はゆっくりと止まっていった。
無料を支えていた“少数の支払い”が減り、広告の単価が下がり、供給の理由が薄くなる。
無料の体系は、無料のままでは維持できなかった。
ほとんどの無料は廃止された。
残った無料は、より強力なメッセージを放つ広告へ置き換えられた。
広告は情報ではなく、命令に近づいていった。
不安を刺激し、欲を煽り、怒りを燃やし、考える時間を奪う。
無料である代わりに、注意と心が徴収される。
それにより、無料のものは価値を失っていった。
人々は疲れ、嫌気が差し、世界は元の状態に戻っていった。
それでもAの無料志向は変わらなかった。
今ではAは、現実をできるだけ見ないようにし、細々と食いつなぎながら暮らしている。
無料の欠片を拾い集め、広告の声を避けながら、目を逸らす技術だけを磨いて。
Aは今日も思う。
「無料でなければ許せない」
全ては無料になる可能性がある。技術と制度が進めば、二極化の溝を埋めることもできるかもしれない。だが、タダ乗りを全面的に肯定できるとは限らない。
問題は、無料が広がるほど、負担が“見えなくなる”ことである。
払っている者が少数になれば、その少数の負担は増える。
そして、知らない者、やっていない者が損をする構造が見えたとき、人はそれを利用し始める。無料は、善意だけでは止まらない。
さらに、無料の代償は金銭に限らない。
時間、注意、判断力、羞恥、不安、怒り。
徴収されるものが別の形へ移っただけだ、という可能性がある。
絶対に誰も損をしないシステムを構築できるなら別である。
だが、誰も損をしない世界は、誰も得をしない世界と隣り合わせでもある。
無料は、救いにもなる。
同時に、世界を痩せさせる。
その境界は、どこにあるのだろうか。