遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
笑いは、人を救うものだと言われる。
けれど、笑いを誰かに預けすぎた人が、自分で笑えるようになったとき、その笑いはどこまで自分のものになるのだろうか。
笑いと感情の主導権をめぐる小さな思考遊戯。
―――――
Aは、お笑いが好きだった。
笑うことは、人間に与えられた素晴らしい力だと思っていた。
笑えば気分が軽くなる。
ストレスもやわらぐ。
身体にも良いと聞く。
何より、笑っている時間だけは、嫌なことを忘れられる。
Aはよく言っていた。
「笑いは最高の薬だよ」
とはいえ、普通に生活しているだけでは、腹を抱えて笑うような出来事など、そうそう起きない。
朝起きて、仕事をして、帰ってきて、食事をして、眠る。
その繰り返しの中に、少しおかしな出来事はあっても、声を出して笑い続けるほどのものは少なかった。
だからAは、お笑い番組を見るのが好きだった。
そこには、笑わせてくれる人たちがいた。
絶妙な間。
予想外の言葉。
くだらないのに、なぜか耐えられない動き。
何でもない日常を、急に可笑しいものへ変えてしまう技術。
Aは、笑いながら思った。
「やっぱりプロはすごいな」
そんなある日のこと。
Aは、一人の芸人に出会った。
実際に会ったわけではない。
画面の中で見ただけだった。
けれど、その芸人はAにとって、あまりにも相性が良かった。
一言話しただけで笑える。
少し表情を変えただけで笑える。
何なら、登場しただけで、もう笑いが込み上げてくる。
Aはその芸人を見るたびに、笑いが止まらなくなった。
腹の奥がよじれる。
息が苦しくなる。
涙が出る。
身体を丸めて、しばらく動けなくなる。
笑い終えたあと、Aはいつもこう言った。
「死ぬかと思った」
最初は、ただの言い回しだった。
それほど笑った、という意味にすぎなかった。
だが、何度も何度も同じ経験をするうちに、Aは少しだけ不安になってきた。
「このままだと、本当に笑い殺されるんじゃないか」
もちろん、そんなことは本気で信じていなかった。
それでも、身体の奥がねじれるような感覚は本物だった。
息ができなくなる苦しさも本物だった。
笑っているのに、どこかで死の気配まで感じてしまう。
Aは、ふと考えた。
「そもそも私は、なぜここまで笑わされているんだろう」
そこでAは、笑いについて見直してみることにした。
すると、あることに気づいた。
自分はいつの間にか、笑わせてもらうことに慣れすぎていたのだ。
面白い人がいてくれるから笑う。
番組が用意されているから笑う。
誰かが言葉や動きで刺激してくれるから笑う。
自分で可笑しさを見つけているのではなく、誰かに笑いのスイッチを押してもらっていた。
そのことに気づいた途端、Aの日常はますます退屈に見えた。
何も起きない部屋。
いつもの道。
変わり映えのしない会話。
何度も見たような景色。
笑えることなど、どこにもないように感じた。
Aは思った。
「このままではいけない」
誰かに笑わせてもらわなければ笑えない人生は、どこかおかしい。
そこでAは、自分の力で笑えるようになる努力を始めた。
笑う努力。
そう考えた瞬間、Aは少し笑った。
「笑うために努力するなんて、もうその時点で少し可笑しいな」
それが、最初の一歩だった。
Aは、日常の中で可笑しさを探すようになった。
信号待ちで、なぜか堂々と斜めに立っている人。
コンビニの棚で、妙に真剣な顔でプリンを選んでいる自分。
靴下の片方だけが見つからず、もう片方がなぜか台所から出てきた朝。
上司が真面目な顔で言い間違えた一言。
自分の考えすぎる癖。
最初は、無理やりだった。
「これは笑えるはずだ」と思っても、心からは笑えない。
だが、続けているうちに、少しずつ見えるものが変わっていった。
世界は退屈なのではなく、自分が笑える角度を見失っていただけなのかもしれない。
Aはそう感じるようになった。
やがてAは、以前ほどお笑い番組に依存しなくなった。
もちろん、見れば楽しい。
プロの芸は相変わらずすごい。
けれど、それがなくても、日常の中で少し笑えるようになっていた。
Aは嬉しかった。
「やっと自分の力で笑えるようになった」
しかし、Aはそこで止まらなかった。
せっかく自分で笑えるようになったのだから、もっと磨きたいと思ったのだ。
もっと楽しく。
もっと柔らかく。
もっと何でも面白がれるように。
Aは、日常のあらゆる場面に笑いを見つける訓練を続けた。
嫌なことがあっても、そこに可笑しさを探した。
失敗しても、そこにオチを見つけた。
怒られても、言葉のリズムや表情に目を向けた。
悲しいことにも、どこか滑稽なズレを探すようになった。
努力のかいがあって、Aはいつの間にか、どんなことでも笑えるようになっていた。
それは、ある意味で成功だった。
だが、同時に新しい問題の始まりでもあった。
友人が真剣に悩みを相談してきたとき。
「実は、仕事のことでかなり悩んでいて……」
Aは、相手の顔を見た瞬間、なぜかその深刻すぎる表情が可笑しくなってしまった。
もちろん笑ってはいけない。
Aは必死に唇を噛んだ。
上司が会議で重々しく話しているとき。
「今回の件は、極めて重大な問題だ」
その言い方があまりにも重々しく、Aには舞台のセリフのように聞こえてしまった。
Aは咳払いでごまかした。
そして何より困ったのは、葬式だった。
会場は静まり返っていた。
誰もが悲しみに沈んでいた。
その空気の重さ。
全員が笑ってはいけないと分かっている状況。
その「絶対に笑ってはいけない」という圧力そのものが、Aには可笑しくてたまらなかった。
Aは下を向き、肩を震わせた。
周囲の人は、泣いているのだと思った。
実際、涙は出ていた。
ただしそれは、笑いをこらえすぎた涙だった。
Aは思った。
「まずい。自分で笑えるようになったら、今度は笑わない努力が必要になった」
笑わせてもらわなければ笑えなかった頃、Aは笑いを欲していた。
今度は、笑いが勝手に湧いてくるようになり、それを必死で押さえ込む日々が始まった。
笑えない人生も苦しい。
笑いすぎる人生も苦しい。
Aはその矛盾に、また少し笑った。
長い年月が過ぎた。
Aにも、人生の終わりが近づいてきた。
ベッドの周りには、家族が集まっていた。
皆、心配そうにAの顔を覗き込んでいる。
Aの呼吸は浅くなっていた。
もう長くないことは、本人にも分かっていた。
そのとき、Aの口元がふるえた。
家族の一人が尋ねた。
「どうしたの? どこか苦しいの?」
Aは、こらえきれないように小さく笑った。
「ククク……」
家族はさらに心配した。
「何が可笑しいの? 大丈夫?」
Aは、途切れ途切れの声で答えた。
「これが……笑わずにいられるか……」
家族は黙って聞いていた。
Aは、最後の力を振り絞るように続けた。
「俺の人生も……もう終わりなんだってよ……。ククク……アハハハ……」
その笑いを最後に、Aは静かに息を引き取った。
家族は泣いていた。
けれど、その中の何人かは、涙の奥で、ほんの少しだけ笑いそうになっていた。
Aらしい最期だと思ってしまったからだった。
―――――
人の感情は、自分だけで動いているように見えて、実際には多くのものに反応している。
テレビ。
動画。
ニュース。
人の言葉。
空気。
場の雰囲気。
誰かの笑い声。
私たちは、それらによって笑い、怒り、悲しみ、安心する。
感情を動かしてもらうこと自体は、悪いことではない。
笑わせてもらうことも、泣かせてもらうことも、励ましてもらうことも、人間の楽しみの一部だ。
ただ、それに慣れすぎると、自分の感情の主導権がどこにあるのか分からなくなっていく。
誰かが笑わせてくれなければ笑えない。
誰かが怒らせなければ怒れない。
誰かが泣かせてくれなければ泣けない。
そうなったとき、感情は自分のもののようでいて、外部の刺激に預けられているものになる。
だからといって、すべての感情を自分だけで処理しようとするのも、また極端なのだろう。
Aは、笑わせてもらうことから離れ、自分で笑えるようになった。
だが、その力を極めすぎた結果、今度は笑ってはいけない場所でも笑いが込み上げるようになった。
笑えないことも苦しい。
笑いすぎることも苦しい。
結局のところ、感情にも「ほどほど」が必要なのかもしれない。
しかし、そのほどほどは、誰かが代わりに決めてくれるものではない。
どこまで外から感情を動かしてもらい、どこから自分で感じ直すのか。
どこまで笑い、どこで笑わないことを選ぶのか。
面倒なようでも、その境目に気づくことが、感情を自分の手に取り戻す最初の一歩なのだろう。
笑いが自分を救うのか。
それとも、自分が笑いに支配されているのか。
その違いに気づけるかどうかで、同じ笑いでも、少しだけ意味が変わってくるのかもしれない。
笑わせてもらうことで救われる夜もある。
でも、何気ない日常の中で、自分からふっと微笑める瞬間も大切にしたい。
そんな小さな温かさを、音楽と映像にしました。
長い一日が 終わる夜
画面の向こうの 笑い声
誰かのおどけた あの言葉で
重たい心が ふっと軽くなる
今日も私を 救ってくれた
だけど画面を 消した途端に
急に部屋が 静かになって
外からの声が ないと笑えない
私のスイッチは どこにあるんだろう
誰かに全部 預けていたのかな
笑いはちゃんと 私を救う
でも笑わせてもらう ことに慣れて
自分で笑う力を 忘れたくない
誰かを笑うより 誰かと笑いたい
退屈な日常に 隠れている
小さな微笑みを 取り戻したい
ひどい寝ぐせの ぼんやり顔
なぜか片方 消えた靴下
真面目な顔での 言い間違い
ただ目が合って こぼれる笑顔
くだらないけれど なんだか温かい
誰かがうつむく 笑い声からは
そっと少しだけ 離れていたい
お腹を抱えて 笑わなくても
何気ないことに 胸が震えるなら
愛おしいって感情も 笑いに似ている
笑えない人生は やっぱり苦しい
でも冷たい笑いに 飲み込まれたくない
笑わせてもらう夜が あってもいい
自分から微笑める 今日ならもっといい
あなたと目が合えば 心はほどける
いつか来る 私の最後の日も
ふっと少し 笑えるくらい
軽やかに 生きていけたらいい