遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
Aは、長いあいだ検索エンジンと向き合ってきた。
攻略しても、対策される。積み上げても、変動で崩れる。
そんな終わりのない競争の中で、Aはようやく「本物の体験」にたどり着いたはずだった。
SEOをめぐる小さな思考遊戯。
―――――
Aは、二十年以上SEOを検証してきた。
検索エンジンに好まれるタイトル。
見出しの並べ方。
文字数。
内部リンク。
被リンク。
共起語。
滞在時間。
クリック率。
思いつく限りのことを試した。
うまくいったこともある。
いくつものページを上位表示させ、アクセスが流れ込んできた時期もあった。
その一方で、苦い経験も何度もした。
昨日まで上位にいたページが、翌朝には見当たらなくなる。
丹念に作ったサイトが、アルゴリズムの変更で一気に沈む。
検索ロボットを攻略したと思った瞬間、その攻略法そのものが対策される。
Aは、何度も同じ感覚を味わった。
「ようやく分かった」と思ったころには、もう古い。
「これで勝てる」と思ったころには、もう誰かが同じことをしている。
「これが正解だ」と言われたものほど、次の更新で正解ではなくなる。
その一方で、まったくSEOを意識していないような記事が、長く上位に残っていることもあった。
文章は洗練されていない。
見出しも整っていない。
キーワードの配置も甘い。
それなのに、落ちない。
Aは、そのたびに首をかしげた。
「なぜ、こんな記事が残るんだ」
何度も読み返すうちに、Aはある共通点に気づいた。
そこには、書いた人の体験があった。
実際に買った。
実際に失敗した。
実際に迷った。
実際に使った。
実際に困った。
実際に解決した。
きれいに整えられた文章ではなくても、そこには手触りがあった。
読み手が知りたいのは、机上の説明ではなく、誰かが本当に通った道だったのだ。
Aは、ようやく答えにたどり着いた気がした。
「なるほど。そういうことか」
検索ロボットを攻略するのではない。
自分の体験を書く。
それが、変動に強い一番の方法なのだ。
それからAは、体験をもとに記事を書きはじめた。
コンビニで買った商品。
使ってみた道具。
申し込んだサービス。
失敗した設定。
迷った手続き。
遠回りして分かったこと。
記事は、以前より安定した。
大きく跳ねることは少なくても、急に消えることも少なくなった。
検索順位も、以前より落ち着いていた。
Aは少し安心した。
「やっぱり、体験は強い」
けれど、すぐに別の問題が出てきた。
体験を書いても、必ずしも収益にはつながらない。
たとえば、コンビニで買った飲み物の記事。
たしかに実体験ではある。
写真もある。
味の感想もある。
値段もある。
しかし、アクセスは少ない。
たまたま話題になって一時的に読まれても、訪問者は数十秒で去っていく。
広告も踏まれない。
商品も売れない。
問い合わせも来ない。
Aは、ボランティアでやっているわけではなかった。
「これでは、意味がない」
そう思ったAは、方向性を変えた。
ただ体験するのではなく、収益につながる体験を選ぶ。
ただ書きたいことを書くのではなく、検索されて、お金に近い体験を書く。
Aの生活は、少しずつ変わっていった。
欲しいものを買うのではなく、記事にしやすいものを買う。
行きたい場所へ行くのではなく、検索需要のある場所へ行く。
困ったことを解決するのではなく、困りごととして記事にできるかを考える。
失敗したときでさえ、Aはまず落ち込むのではなく、検索ボリュームを思い浮かべた。
「これは記事になる」
そう思うと、苦い経験さえ少し嬉しくなった。
新しいサービスに申し込むときも、Aは自分に問いかけた。
本当に必要か。
ではない。
検索されるか。
収益につながるか。
体験談として強いか。
やがてAは、体験する前から記事タイトルを考えるようになった。
「〇〇を実際に使って分かった注意点」
「〇〇で失敗した私が伝えたいこと」
「〇〇は本当に損なのか体験してみた」
「〇〇を選ぶ前に知っておきたい落とし穴」
体験は、記事のために用意されるようになった。
それでも、結果は出た。
検索順位は安定した。
読まれる記事も増えた。
収益も少しずつ伸びた。
Aは、ようやく正しい道を見つけたように思った。
しかしある日、Aはふと気づいた。
最近、自分が何をしたかったのか思い出せない。
買い物をしても、味わう前に写真を撮る。
失敗しても、傷つく前に見出しを考える。
楽しい場所へ行っても、楽しむ前に検索意図を探る。
誰かと話していても、その言葉が記事の導入に使えないかを考えている。
体験は、人生の中にあるものではなくなっていた。
記事のために、人生の方が後からついてくるようになっていた。
Aは、検索エンジンに評価されるために「本物の体験」を書いていたはずなのに、いつの間にか検索エンジンのために体験する人間になっていた。
そのころ、検索の世界も変わり始めていた。
人々は、以前ほど検索結果を一つひとつ開かなくなっていた。
検索すれば、AIが先に答えをまとめてくれる。
どのページを読めばいいかではなく、何が結論なのかをすぐに知ることができる。
Aの記事も、その答えの材料として使われていた。
「実際に使った人の声によると――」
「体験談では、次のような注意点が挙げられています――」
AIは、Aの記事をきれいに整理していた。
読みやすく。
短く。
分かりやすく。
余計な感情を省いて。
Aが何時間もかけて体験し、写真を撮り、失敗を整理し、文章にしたものは、数行の要約になって表示された。
訪問者は、もうAのページまで来ない。
答えだけを受け取り、満足して去っていく。
Aは画面を見つめた。
そこには、Aの体験から抜き出された要点が並んでいた。
間違ってはいない。
むしろ、的確だった。
だが、Aの中にあったはずの迷いや温度や遠回りは、きれいに削られていた。
「体験に基づく信頼性の高い情報です」
AIの表示には、そう書かれていた。
Aは笑おうとして、笑えなかった。
自分は、検索ロボットを攻略しようとして疲れ果てた。
それから、人間に向き合うために体験を書こうとした。
しかし気づけば、体験を検索向けの商品に変え、最後にはAIに要約される材料になっていた。
それでもAは、まだ諦めきれなかった。
翌朝、Aは新しいノートを開いた。
そこには、こう書かれていた。
「AIに引用されやすい体験談の作り方」
Aはペンを持ち、しばらく考えた。
そして、最初の一行を書いた。
「まず、体験する前に、AIが拾いやすい悩みを決める」
その瞬間、Aはようやく気づいた。
自分はもう、体験をしていない。
検索されるための出来事を、人生に配置しているだけなのだと。
けれどAは、ペンを止めなかった。
画面の向こうには、まだ誰かが答えを待っている。
検索欄の向こうには、まだ誰かの悩みがある。
AIの向こうには、まだ拾われるべき文章がある。
Aは小さくつぶやいた。
「これも、体験だよな」
その声は、自分に向けた言い訳なのか。
検索エンジンに向けた最適化なのか。
それとも、もう誰にも届かない独り言なのか。
A自身にも、分からなくなっていた。
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SEOは、本来悪いものではない。
探している人に、必要な情報を届ける。
困っている人が、遠回りせずに答えへ近づける。
そのために文章を整え、見つけてもらいやすくすることには、確かに意味がある。
しかし、そこに「攻略」という意識が強く入りすぎると、話は少しずつ変わっていく。
検索エンジンに評価されるための文章。
読者に長く滞在してもらうための構成。
収益につながるキーワード。
AIに拾われやすい要点。
そうした工夫は、どれも単体では悪ではない。
けれど、そればかりを見つめていると、いつの間にか「何を書くか」よりも、「どう評価されるか」が中心になっていく。
そして、体験さえも最適化の材料になる。
本当に困ったことを書くのではなく、困っているように見える体験を作る。
本当に知りたかったことを書くのではなく、検索されやすい悩みを選ぶ。
本当に残したい記録を書くのではなく、AIに要約されやすい形へ削っていく。
そこには、不思議なねじれがある。
検索に強い文章ほど、人間の体験に近づこうとする。
けれど、検索を意識しすぎた体験は、人間の生活から少しずつ離れていく。
今は、検索結果を開かなくても、AIが答えを整理してくれる時代になりつつある。
上位表示されたとしても、読者が本文までたどり着くとは限らない。
逆に、上位表示されなくても、どこかの文章が答えの一部として取り込まれることもある。
だとすれば、これからのSEOとは何なのだろう。
検索ロボットに見つけてもらう技術なのか。
AIに要約されるための構造なのか。
それとも、要約されてもなお残る、体験の温度をどう守るかという問いなのか。
もし体験まで検索向けに作り変えてしまうなら、
その体験は、まだ自分の人生と呼べるのだろうか。
SEOという言葉はこれから、
「検索で上に行く技術」ではなく、
「自分の体験を、どこまで機械に渡してよいのか」を考える言葉に変わっていくのかもしれない。