消したつもりの傷が、形を変えて残る――裏思考遊戯。
A男は古い家で遺品整理をしていた。祖父が亡くなり、空気の止まった部屋を一つずつ開けていく。
箪笥の奥、箱の底、布の下。思い出は、どれも埃の匂いをまとっていた。
そんな中で、A男の手が止まった。
一冊の古いノート。表紙は擦れて角が潰れ、背は歪んでいる。
そして不自然だった。ページの端に、無数の切れ込みがある。爪で引っ掻いたような、刃物で刻んだような。
A男はノートを開いた。祖父の日記だった。
日々の出来事と、感情と、反省。丁寧な字で綴られている。
だが、ある行に差しかかったとき、目が勝手にそこへ吸い寄せられた。
切れ込みが入っている箇所だ。
切れ込みは、墨で引いた線よりも強い。声よりも大きい。
「……なんで、こんなことを」
A男はページをめくった。
次のページ、また次のページにも切れ込みがある。
同じように見えて、深さが違う。位置も違う。迷いも違う。
切れ込みが浅いところは、何となく透けて見える。
切れ込みが深いところは、紙が千切れかけている。
まるで、祖父がそこへ向けた感情の強度が、そのまま紙に移ったみたいだった。
あるページに、祖父と友人の争いが書かれていた。
怒り、言い訳、後悔。
そして最後に、短い一文。
「仲が修復されることはなかった」
その一文には、他のどこよりも深い切れ込みが入っていた。
切れ込みは紙を貫き、次のページにまで影を落としている。
A男は、胸が痛くなった。
祖父が大事にしていたはずの友人。
それを失った痛みが、紙に残っている。
いや、紙じゃない。祖父の中に残っていたものが、紙に刻まれたんだ。
A男はそこで、妙な感覚に襲われた。
祖父の人生を読んでいるのに、自分の話を読まされているような感覚だ。
「……俺にも、ある」
A男はノートを閉じかけて、止めた。
自分の心にも、同じような切れ込みがある。
過去の失敗。言わなければよかった言葉。やらなければよかった行動。
思い出すたびに、心の同じ場所が裂ける。
時間が経っても、傷は“消えない”。薄くなるだけだ。
A男は、ふと気づいた。
祖父は“忘れる”ために切れ込みを入れたんじゃない。
忘れられないから入れたんだ。
そして、忘れないためでもない。
忘れないでいるしかない痛みを、どこかへ移すためだ。
だが、移したはずの痛みは、残っている。
切れ込みは、ページが変わってもついてくる。
深い切れ込みほど、次のページに影を落とす。
A男はノートをめくり続けた。
すると、あることが分かった。
祖父は、切れ込みを入れている場所が“痛み”だけじゃない。
同じページに、切れ込みが二種類ある。
一つは、争い、失敗、後悔。
もう一つは、妙に静かな場所――「今日は夕焼けが綺麗だった」とか、「孫が笑った」とか、そんな行にも入っている。
A男は息を呑んだ。
祖父は、痛みの行だけを刻んでいない。
痛みと一緒に、救いも刻んでいる。
A男は思った。
切れ込みは、傷跡じゃない。
傷跡だと思った瞬間、ただの呪いになる。
だが、そこに「救い」まで刻めるなら、切れ込みは――
自分が生き延びた証拠にもなる。
A男はノートを閉じた。
部屋は静かだ。祖父はもういない。
それでも、祖父の切れ込みは残っている。
さて。
あなたの心にも、残存する切れ込みがあるだろうか。
それはただの傷跡だろうか。
それとも、あなたが生き延びた証明だろうか。
切れ込みは消えない。
だが、切れ込みの意味は変えられる。
あなたは、その切れ込みに何を刻む?
裏側を言う。
人はよく「過去を手放せ」「忘れろ」「切り替えろ」と言う。
だが、切れ込みが深いほど、それは無理だ。
深い切れ込みは、人格の一部になっている。
忘れたら壊れる。
だから忘れられない。
そして忘れられない自分を、また責める。ここが地獄だ。
だから、方向を変える。
消そうとするな。
「なかったこと」にしようとするな。
切れ込みは残る前提で、意味づけを奪い返す。
傷の意味づけは、他人が勝手につける。
「お前が悪い」
「弱いからだ」
「いつまで引きずってる」
そういう言葉は、切れ込みにさらに刃を入れる。
だが、意味づけは取り返せる。
切れ込みは「呪い」にもなるし、「証明」にもなる。
この話で一番言いたいのはここだ。
切れ込みが残っているのは、あなたが未熟だからじゃない。
むしろ逆だ。
切れ込みを抱えたまま生きてきたという事実が、もう強さだ。
そしてもう一つ。
痛みの行だけを刻むと、世界は暗く固定される。
だから、祖父みたいに、同じ刃で「救い」も刻む。
夕焼け。猫の寝息。誰かの笑い声。
そういうものは弱いから大事なんじゃない。
切れ込みの影を中和する力があるから大事なんだ。
あなたの切れ込みは、残っていていい。
ただし、その切れ込みを、誰の言葉で埋めるか。
そこだけは、あなたが決めていい。