人の心をこれだけ踏みにじっておいて、今もどこかで、のうのうと生きていると思うと許せない。
想像しただけで胸がムカムカする。
そんなふうに思う自分を、ふと疑う瞬間がある。
これは、被害者妄想ではないのか?と。
でも、もし何もしなければ――
世の中は「人をないがしろにしてもいい」「踏みにじっても大丈夫」という空気で満ちてしまうのではないか。
踏みにじる側が、増えてしまうのではないか。
だから腹が立つ。
そして腹が立つのは、きっと私が「やってはいけない」と信じているからだ。
自分が、やらないと思えるからこそ。
自分が、そういうやり方を選びたくないからこそ。
だからこそ、許せない。
……でも、ここで、もう一つの疑いが顔を出す。
自分は知らないうちに、誰かを踏みにじっていないか?
違う角度から見れば、私は気づいていないだけかもしれない。
そして、そう考えられる自分がいるから、なおさら腹が立つ。
「そんなことさえ考えない人間がいる」ことに。
人の心を傷つけたことよりも、傷つけたことに無自覚で、平気でいることに。
ただ、さらに厄介なのは――
もしかしたら、その無自覚ささえも、どこかで傷つけられた心が作ったものかもしれない、という可能性だ。
踏みにじる人は、もともと踏みにじられてきたのかもしれない。
痛みを扱えないまま、別の誰かに渡しているだけなのかもしれない。
だとしたら、私が最初にやるべきことは、何だろう。
許すことでもない。
距離を取って無視することでもない。
報復して罰を与え、「学ばせよう」とする、独りよがりの小さな正義感でもない。
まずは、理解することなのかもしれない。
ただ、ここで私は自分に問い返してしまう。
結局、何もできない弱虫で、綺麗事を自分に言い聞かせて納得させているだけなのだろうか、と。
けれど本当は、何もしないのではない。
「同じやり方を選ばない」と決めるのは、逃げではなく、挑むということだ。
怒りがあるのに、すぐ壊す方へ流れない。
痛みがあるのに、次の痛みを生まない。
その難しさに、正面から挑む。
ここで言う理解は、肯定ではない。
正当化でもない。
「仕方ない」で終わらせることでもない。
ただ、ひとつだけ気づく。
傷つけられた心が、別の傷を生むことがある。という事実に。
もちろん、この世には、とうてい理解できない酷い行為が存在する。
全部を理解しなくていい。
理解できないものにまで、無理に意味を与えなくていい。
それでも、たった一つ、可能性として気づけるだけでいい。
「悪意」に見えるものの中に、扱いきれなかった痛みが混ざっている場合がある、と。
そしてもう一つ、私はこうも思う。
人を傷つけ、知らないそぶりをして生きることは、外から見えるほど自由ではないのかもしれない。
自分がしていることは、原理として相手もできる。
どんなに目を逸らしても、「いつ返ってくるか分からない」という不安と一緒に生きることになる。
その不安は、自分と向き合う力を奪い、さらに人を傷つけ、また不安を増やす。
傷つけるほど、安心から遠ざかり、安心から遠ざかるほど、傷つけやすくなる。
そんな悪循環が待っている。
だから私は、怒りを握りしめたままでも、少なくともこの連鎖を自分のところで止めたい。
許せない気持ちが消えなくてもいい。
ムカムカする胸が、すぐ静まらなくてもいい。
ただ私は、こう決めたい。
この怒りを、誰かを壊す力にはしない。
この怒りを、連鎖を止める力に変える。
そして、いつか爆発してしまいそうなこのエネルギーも、できる限り建設的な方向へ向け直して、私自身で証明したい。
そしてもし世界が少しでも守られるとしたら――
それは、誰かを裁けたからではなく、
「踏みにじっても大丈夫な世界」を、私が選ばなかったからなのだと思う。