意識のあるゾンビに「殺してくれ」と頼まれたとき、その一撃は本当に自分の判断なのか──ゾンビ映画の記憶と安楽死の倫理が交差する瞬間を描いた思考遊戯。
A男は、ホラー映画を観ていた。
特別ホラー好きというわけではない。
ただ、たまには日常から少し外れた“強い刺激”を味わってみたくなっただけだ。
最近はゾンビものが流行っているらしい。
人気ランキングの上位にずらりと並んでいたので、そのうちの一本を選んで再生ボタンを押した。
画面の中で、人が、あっさりと“元・人間”を撃ち抜いていく。
ためらいなく斧を振り下ろす者
迷いを断ち切るように引き金を引く者
「もう人間じゃない」と自分に言い聞かせる者
A男は、眉をひそめながらも最後まで観た。
「最近は、ここまで人間の酷い一面を平然と描けるのか」
変な感心と、言葉にならないざらつきが心に残った。
そんなある日、ニュースが世界を駆け巡った。
「イモータル・テクノロジー(不死技術)実用化への道筋が見えた」
遺伝子研究の進展により、
老化を大幅に遅らせる可能性が出てきたという。
A男は、その記事を読みながら思った。
「楽しみだな。
自分の人生を、もう少し長く生きられるかもしれない」
希望とも不気味さともつかない感情が、
胸の奥でかすかに揺れた。
だが、その期待は、
思わぬ方向に裏切られることになる。
ちょっとした手違いから、
改変された遺伝子がウイルスを介して拡散し、
“ゾンビ”と呼ばれる状態の人々が現実に誕生してしまったのだ。
それは、あっという間に世界中に広がった。
A男も、他の多くの人々と同じく、
ゾンビ映画を一通り観てきていた。
そのせいか、
最初のうちはゾンビに対して、
ほとんど躊躇を感じなかった。
「噛まれたら終わり」
「感染が広がる前に始末すべき」
頭の中で、映画のセリフがそのまま再生される。
現実のゾンビを前にしてなお、
身体のどこかがあの物語の“お作法”に従おうとしているのを、
A男はうすうす感じていた。
ただ、一つだけ、映画と決定的に違う点があった。
ゾンビの中に──
意識が残っている人間がいたのだ。
彼らは、半ば崩れた身体で、
濁った目をこちらに向けながら、それでもはっきりとした言葉で訴えた。
「殺してくれ」
「このまま意識があるまま、
人を襲ってしまうなんて、もう耐えられない」
A男は、銃を握る手を強く震わせた。
これは、映画じゃない。
目の前の“ゾンビ”は、確かにまだ人間だ。
それでも、
本人が苦しみながら“殺してくれ”と願っているのを前に、
A男は「嫌だ」と言えなかった。
引き金を引いた瞬間、
彼の中で何かが確かに壊れた気がした。
それから三ヶ月後。
ワクチンと治療薬が開発され、
ゾンビ化の症状は急速に収束していった。
人々はようやく、
「終わり」が見えたと胸を撫で下ろした。
しかし、そこからが本当の難題だった。
世界各地で、一斉に裁判が始まったのだ。
まず、ゾンビ状態の人間について。
意識がほとんどなかった者
身体の制御が効かず、暴力的な行動を取らざるを得なかった者
彼らは、「責任能力がない状態だった」と判断され、
法的にはほとんど問われないことになった。
問題は、別のところにあった。
「意識のあったゾンビを“殺した側”は、殺人になるのか?」
という点である。
多くのケースで、
「感染を防ぐための正当防衛」が認められた。
だがその一方で──
もう危険が去ったあとも、
“治らないと思い込んで”家族を安楽死させた者
苦しげな懇願に耐えきれず、
自宅でひっそりとパートナーを殺めた者
そうした人々は、
たとえ刑罰を軽減されたとしても、
生涯にわたって深い罪悪感を抱え続けることになった。
「もし、あのとき、
映画を観ていなかったら──」
「もし、“ゾンビは躊躇なく殺すものだ”と
思い込んでいなかったら──」
そう自問せずにはいられない者たちが、大勢いた。
やがて、ある集団訴訟が起きる。
「ゾンビ映画制作会社は、
人々に“躊躇なく撃ち抜く”という行動様式を刷り込んだ。
それが今回の判断に影響を与えたのではないか」
精神的苦痛と判断の誘導を理由として、
複数の映画会社が訴えられたのだった。
「苦しみから救うために、
本人の意思を尊重して死なせること」は、
罪なのだろうか。
医療や倫理の世界では、
ずっと議論され続けてきた問いだ。
だが、この物語で浮かび上がっているのは、
その問いをもう一段、ややこしくする問題かもしれない。
私たちは、“殺すべきかどうか”という判断を、
どこで学んでいるのか。
そのとき頭の中で再生されているのは、
誰の声なのか。
物語や映画は、
ただ娯楽として消費されるだけではない。
いざというときの行動パターン
「こういう場面では、こうするものだ」という“お作法”
何が「正しい行動」に見えるかという、先入観
そうしたものを、
知らないうちに静かに刷り込んでいく。
もし、ある人が
「ゾンビは躊躇なく撃ち抜くべきだ」という物語だけを
繰り返し浴びていたとしたら──
本人の意思で「殺してくれ」と言われたときの判断は、
ほんとうに“自分の判断”と言えるのだろうか。
あるいはそれは、
物語が用意してくれた“正しい選択肢”を
無意識に選んだだけ
だったのかもしれない。
「殺すこと」は、
いつも極限の場面で語られる。
だがその手前で、
私たちの中に
“何を殺してよくて、何を殺してはならないか”
という基準が、
静かに育てられている。
その基準を、
誰に、何に、預けているのか。
それを問い直すこともまた、
「殺すこと」を考える一部なのかもしれない。