痛みが消えるほど、意思は軽くなる──そんな痛みをめぐる思考遊戯。
Aの虫歯は、静かに、しかし確実に悪化していた。
最初は「噛むと少し痛い」程度だった。
それがいつしか、何もしていなくても、奥のほうで脈打つようになった。眠ろうとすると、痛みのほうが先に目を覚まさせる。
それでもAは歯医者に行かなかった。
Aは歯医者が苦手だったのだ。
「あんな訳のわからない機械で、痛いところを直にこねくり回されるなんて、たまったもんじゃない」
苦手というより、恐怖だった。
口の中を触られるあの感じが、Aには内臓を直にいじられる手術のように思えていた。理屈では違うとわかっていても、身体が拒否する。
だからAは、痛み止めの薬で耐えた。
痛み止めが切れそうになったら、飲む。
それを繰り返した。
効いているあいだだけ、世界が「ふつう」に戻る。だから、切れる前に飲む。切れる前に飲む。切れる前に──。
だが、ある日から効いている時間が短くなった。
そして、ついに強い薬でも、痛みが抜けきらなくなってきた。
Aは、気が狂いそうになった。
仕方がない。観念して歯医者へ行くことにした。
受付の匂い、壁の白さ、遠くで聞こえる機械音。その全部が、Aの背中を冷たくなぞった。
治療台に座る。
「椅子を倒しますよ」
その一言が、Aには死刑執行台に乗せられる合図のように聞こえた。
胸の奥がきゅっと縮み、逃げ出したいのに身体が動かない。
Aは、歯医者が苦手な人向けに笑気麻酔をお願いした。
しばらくすると、息が軽くなった。
視界の輪郭がふわりと柔らかくなり、世界が少し遠くなる。
怖いはずなのに、怖さが「届かない場所」に押しやられていく。
気持ちがいい、とAは思った。
普段、酒を飲まないせいかもしれない。
それでも意識は完全には消えない。声も聞こえるし、触れられている感覚もある。だが、そこに「痛みの予感」が結びつかない。
Aは、ふと考えた。
「先生を神だと仮定して、全部を委ねてみよう」
そう決めた瞬間、Aの中で何かが切り替わった。
恐怖が、役目を失ったように静かになる。
治療中、Aは言葉にできない奇妙な感覚を何度も味わった。
「嫌だ」「怖い」という抵抗が薄れる代わりに、身体の奥が解けていくような感覚。
痛みではなく、安堵が染みてくる。
治療が終わって外に出たとき、Aは思わず空を見上げた。
「……なぜ、あんなに我慢していたんだろう」
自分の愚かさに、素直に目を向けられるほど、心が軽くなっていた。
そしてAは、歯医者を好きになった。いや、正確には──歯医者に行きたくてたまらなくなった。
数日後、Aはまた「行きたい」と思っている自分に気づいた。
痛みがなくても、行きたい。あの“ふわり”を、もう一度味わいたい。
軽い依存症のような状態だ、とAは自覚していた。
それでも、止める理由が見つからない。
Aは、心の中でそっとつぶやいた。
「これが怪しげな宗教じゃなくて、何よりだ」
痛みは、当人にとって現実である。
その痛みが「一瞬だから」「たいしたことじゃないから」と外側から軽く扱われたとき、暴力は簡単に正当化されてしまう。
では、苦痛を感じさせなければ何をしても許されるのだろうか。
痛みを消すことが善だとして、その善は、いつも正しい方向に使われるのだろうか。
さらにややこしいのは、痛みを消すだけでなく、快楽まで与えられる場合だ。
不安や恐怖を、心地よさで上書きできる。抵抗を、気持ちよさで溶かせる。
そのとき「同意」は、どこまで当人のものと言えるのか。
そして、もし当人がそれを望んだ場合はどうだろう。
苦しんでいる人が「終わらせてほしい」と願うとき、周囲は何を根拠に止め、何を根拠に許すのか。
未来の喜びの可能性、家族の悲しみ、本人の現在の確信──そのどれを優先するのかは、簡単に秤にかけられない。
痛みを消す技術が進むほど、世界は優しくなる。
同時に、世界は“選ばせる”ことが上手くなるのかもしれない。
痛みがなくなったとき、私たちは何を「自由意志」と呼ぶのだろうか。