敵と味方。
対立。
分かりやすい構造。
そして分かりやすいものほど、人の注目を集めやすい。
「どちらの味方につくか?」
この問いは、迷いを減らす。考える量を減らす。
だから強い。
食べ比べ対決でもいい。
家畜ならいくら食べても問題ない、という前提で盛り上げられる。
格闘技やゲームのような直接的な勝負だけでもない。
画面に向かって音符通りに声を出せるか、という対決でもいい。
ボールを追う、走る、共通ルールにそったスポーツ対決から、国家の対立まで、幅は広い。
対立は、目を奪う。
目を奪うものは、ビジネスにつながる。
だから世界は、対立を“分かりやすく”見せたがる。
けれど、その分かりやすさが、いつからか「世界の見方」そのものになっていく。
不思議だけれど、近ければ近いほど対立は深くなりやすい。
近所、兄弟、家族、 同業、仲間内、隣国。
遠い相手には、雑なラベルを貼れる。
でも近い相手は、細部まで見えてしまう。
「似ているのに違う」部分が、やけに目につく。
そこに火がつくと、争いは“意見”ではなく“存在”に刺さりはじめる。
だから、近い者同士が仲良くなるのは難しい。
近いからこそ、許せないところが増える。
神と悪魔。
この二項対立は、信じやすい。覚えやすい。迷わない。
でも考えてみると、神が「すべてを創った根本のもの」なら、
敵も味方も、本当はそこに含まれているはずだ。
つまり敵と味方は、世界に最初からあるというより、
信じやすくするために、人が引いた線なのかもしれない。
敵が誕生した瞬間、味方も誕生する。
味方が欲しくなった瞬間、敵も必要になる。
そういう循環がある。
もう少し複雑にすると、こうなる。
敵の敵は味方なのか。
共通の敵が入れば協力しやすいのか。
確かに、人は「共通の敵」がいると団結しやすい。
ただ、その団結はときどき“結束の仮縫い”でもある。
敵が消えた途端、味方同士が割れはじめることもある。
つまり敵は、団結の燃料になりやすい。
そして燃料になった瞬間、敵は実体というより“役割”になる。
敵が必要なのか。
敵がいなければ生きていけないのか。
大げさなのか。
私は、こうも思う。
敵が必要なのではなく、敵という形にしておくと楽なのかもしれない。
複雑な現実を一言で片付けられる。
自分の正しさを短時間で固められる。
不安を外に置ける。
胸の中のざわつきに、名前をつけられる。
だから、平和と戦争もどこか似ている。
人類が増え、時代が複雑になるほど、一言で良い悪いでは片付けられない。
それでも人は、短い言葉で世界を割りたくなる。
三国志の劉禅は、誇りを持たず、痛みも分からず、
戦いを避けて楽しく暮らせればいいと思っていた――
そう語られることが多い。
一方で、彼は戦いが続く時代の中で、結果として長く生きた。
個人の幸せか、誇りを持って名を残す生き方か。
どちらが良い悪いも、一概には言えない。
それでも劉禅は、英雄譚の中で「味方の中心」になりにくい。
そしてそこには、私たちの“物語の都合”が見える。
敵と味方は、出来事そのものより先に、
物語の側が決めてしまうことがある。
誰を持ち上げ、誰を落とせば分かりやすいか。
誰を“悪”にすれば、全体が締まるか。
そうやって、線は引かれ直される。
敵と味方は、世界の真実なのか。
それとも、私たちが安心するために引いた線なのか。
もし線なら、私は今日、どこに線を引き直すのだろう。
誰かを守るための線と、誰かを倒すための線。
その違いを、私はちゃんと見分けられているだろうか。
そして、もう一つ。
線を引き直す以前に、そもそも線を引かないという選択肢もある。
敵と味方に割らずに、ただ「状況」と「役割」と「目的」として見る。
“敵”ではなく“課題”として扱う。
そうすると、戦う理由そのものが薄れる場面もある。
敵味方を分けるのは、分かりやすい。
けれど、分かりやすさの代償として、余計な戦が生まれることもある。
私は時々、線を引くより先に、線を消す勇気を思い出したい。