眠るたびに別の一日を生きるようになった人が、ある朝、どこにも「本当の現実」を見つけられなくなる思考遊戯。
Aは、疲れ切っていた。
どれだけ眠っても、まるで一度も眠っていないかのように。
眠れないわけではない。むしろ、よく眠れる。
問題は、眠っているあいだに「もうひとつの一日」をきっちり生きてしまうことだった。
布団に入って目を閉じる。
次に瞼を開けると、そこは別の家の寝室で、別の家族がAを待っている。
そこで朝から夜まで過ごし、ベッドに潜り込む。
眠りに落ちた瞬間──現実の世界で目が覚める。
そして、夢の中で過ごした一日の記憶は、現実にそのまま持ち越される。
現実の一日。
眠る。
夢の一日。
眠る。
また現実の一日──。
こうしてAは、途切れなく二つの人生を往復させられていた。
当然、疲労は溜まる一方だった。
しかし医者に相談しても、検査結果はどれも正常と言われるだけだ。
「眠った気がしないと言っても、実際には動けている。
これはただ、感覚の問題に過ぎない」
そう自分に言い聞かせることで、Aはなんとか折り合いをつけようとした。
「考えようによっては、二つの人生を楽しめているのかもしれない」
そう思い込むことにした。
現実の世界では、配偶者と子どもが一人。
夢の世界では、別の配偶者と、きょうだいのいる子どもたち。
どちらの家庭にも、大きな問題はなかった。
片方でトラブルが起きても、もう片方の世界で「何もなかった一日」を過ごすことで、気持ちをリセットできた。
どちらの人生も、表面的には穏やかで幸福だった。
──あの日までは。
その日も、Aはいつものように現実世界の一日を終え、
歯を磨き、布団に入り、目を閉じた。
次に目を開けたとき、Aは知らない天井を見ていた。
どちらの家の天井でもない。
家具も壁の色も、見覚えがない。
Aは慌てて起き上がった。
「ここは……どっちだ?」
夢なのか、現実なのか。
そもそも「現実」と呼ぶべき世界が、どちらだったのか。
ベッド脇の棚には、見たことのない家族写真が並んでいる。
そこに写っているAは、たしかにAなのに、
隣に立っている人物も、抱き上げている子どもたちも、すべて初めて見る顔だった。
胸が早鐘を打つ。
現実の家族の名前を思い出そうとすると、夢の家族の顔が割り込んでくる。
夢の家族の声を思い出そうとすると、この見知らぬ家族の笑顔が混ざり込んでくる。
どの記憶も、生々しく、同じ強度でリアルだった。
Aは問いかけた。
「これは夢なのか?
それとも、いままで見ていた二つの世界のどちらかが夢だったのか?」
答えは、どこからも返ってこない。
ただひとつ、はっきりしているのは、
どの人生を思い出しても「一番現実らしい世界」を選び出すことが、
もう出来なくなっている──という事実だけだった。
記憶が曖昧なものだとしたら、
夢と現実の境界が曖昧になっても、不思議ではないのかもしれない。
たとえば、寝ているときに
「喉が痛い」と自分で確認している夢を見ることがある。
目を覚ましてみると、喉はまったく痛くない。
そこで初めて、それが夢だったと気づく。
なぜ、そのような夢を見たのか。
過去に喉が痛かった経験があり、その記憶が何かのきっかけで呼び覚まされた、ということも考えられる。
このように、夢はしばしば「記憶の断片」を素材として組み立てられている。
もし、現実の知覚もまた、
過去の記憶と結びつけながら「意味づけ」して認識しているのだとすれば──
現実も夢も、どちらも「記憶によって作られた世界」である、
と言えなくはないのかもしれない。
どちらの世界も、目を覚ました瞬間に
「さっきのは夢だった」と片づけてしまうことが出来るのだとしたら。
もしかすると、今、これを読んでいるあなたも、
まだ続いている夢の途中にいるのかもしれない。
だとすれば、目覚めたとき、こう思うだろう。
「おかしな夢を見た」と