遺伝をめぐる思考遊戯。
カオリは、昨夜の件名を何度も見返していた。
「遺伝業界」——それは、今までのどのテーマよりも重い。
しかも、重いのに、どこか生活に近い。
匿名メールは、いつも同じ調子で届く。
褒める。提案する。成功を祈る。
そして、こちらの手を動かす。
カオリはノートPCを開き、メールをもう一度読む。
カオリさん、
素晴らしい記事でした。次はさらに興味深いテーマを提案します。
「遺伝業界」について書いてみてください。
遺伝子研究や遺伝子編集技術が急速に発展する中、
その裏には多くの倫理的問題やリスクが潜んでいます。
このテーマを掘り下げることで、さらなる読者の関心を引くことができるでしょう。
成功を祈っています。
匿名
“読者の関心”という言葉が、やけに乾いて見えた。
ここまで来ると、匿名はもう助言者ではない。
編集者でもない。
もっと無機質な、設計の匂いがする。
カオリは検索窓に「遺伝業界」と打ち込んだ。
ページは一瞬で埋まる。
治療、予防、最適化、可能性。
どれもきれいな言葉だった。
そしてきれいな言葉ほど、入口が広い。
読み進めるうちに、カオリは二つの層を見つけた。
ひとつは、表の世界。
「健康のため」「未来のため」「早期支援のため」。
もうひとつは、裏の噂。
“秘密裏の実験”“公開されない成果”“倫理の飛び越え”。
そして、裏の噂の中に、見覚えのある単語が混じっていた。
教育。
能力。
子ども。
カオリの背中が少し冷えた。
——塾。
あの先生は、言った。
「才能より、反射です」と。
落ち着いた声で、当然のことのように。
カオリは、その言葉を思い出しながら、さらに検索を絞った。
「遺伝子 教育 能力 塾」
「ゲノム 学習設計」
「早期支援 適性」
すると、妙に整った資料が出てきた。
図表が多く、説明が簡潔で、反論しにくい。
“不安を減らす”という言葉が、何度も出てくる。
塾の黒板と同じ匂いだった。
安心の形。数字の形。
そして、親が欲しがる形。
そのとき、匿名メールに“添付”があることに気づいた。
前回はなかった。
今回、はじめて付いていた。
ファイルを開くと、古い研究論文のPDF。
実験ログのような表。
そして、ある塾の生徒の成績推移。
上がり方が、普通ではない。
異常なほど滑らかで、異常なほど揃っている。
資料の末尾に、名前があった。
研究者名。肩書。所属。
そして——塾の先生の名前と一致する表記。
カオリは息を止めた。
心臓の音だけが、部屋の中で大きい。
もしこれが本当なら。
先生は、子どもたちの能力を“引き出している”のではない。
操作している。
カオリは、すぐに「告発」という言葉を思い浮かべた。
でも、同時に別の言葉も浮かんだ。
拡散。
炎上。
興味。
信頼。
収益。
真実を武器にする方法を、カオリはもう知っている。
透明性がコンテンツになることも知っている。
だからこそ、手が止まった。
——私は今、子どもを守るために書くのか。
——それとも、入口を強くするために書くのか。
画面の資料は、冷たい。
冷たいのに、一度見たら戻れない。
“遺伝”という入口は、そういう形をしている。
その夜、メールがもう一通届いた。
件名は、短い。
「反射的な日課」
プレビューに、一行だけ見えた。
「無意識の習慣が、どれほどの影響を持つのか考えたことはありますか?」
カオリは、ゆっくり息を吐いた。
反射。習慣。日課。
——先生が言った言葉と、同じ匂いだ。
カオリは、初めてはっきりと思った。
「送り主は、塾の先生だ」
そして、もうひとつ。
「次は、私の中にある“入口”を突いてくる」
遺伝の話が怖いのは、残酷だからではない。
“善意の顔”で、戻れない入口を作れるからだ。
教育は、努力を語れる。
広告は、意図を疑える。
真実は、検証できる。
だが遺伝は、一度「知る」と、それが判断の土台になる。
土台になったものは、簡単には捨てられない。
そしてもう一つ、厄介な点がある。
こういう入口ほど、たいてい“外”ではなく、内側から開く。
「知りたい」
「子どもを守りたい」
「不安を減らしたい」
——その気持ち自体が、入口になる。
あなたが何かを“反射的に”選ぶとき、
それはあなたの意思だろうか。
それとも、誰かが用意した安心の形に、手が勝手に伸びているだけだろうか。
次回:「反射的な日課」