信じるほど損をする? ― 取引としての信仰
利益と信頼をめぐる思考遊戯。
相手が見えないとき、人は何を根拠に“協力”できるのか。
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神は考えていた。
「これまで曖昧にやってきたせいで信者が減っている。何とかせねば」
そこで神は、金銭的に恵まれていない二人の人間を選び、声をかけた。
すると突然、A子の頭の中に声が響いた。
「A子よ、私は神だ」
A子は驚いた。
神は意に介さず、淡々と語りかけた。
「お前は選ばれし者だ。お前とは別に、もう一人“選ばれし者”がいる。
その者はお前とは無関係で、地球の裏側にいるため、連絡も取れない」
神は続けた。
「もし二人とも私を信じるなら、一人につき百万円やろう。
しかし私は他の神とは違う。そこまで心は狭くない。
もし二人とも信じないなら、その勇気に免じて、どちらにも五千万円やることにしよう。
そして――もし片方だけが私を信じた場合、信じた方に一億円やろう。
その代わり、信じなかった方は何ももらえない」
A子は困惑した。
だが、魅力的な提案に頭の中が目まぐるしく回転し始めた。
(理想は、私が信じて、相手が信じないパターン。
でも確実を取るなら、信じるしかない。
ただ、それだと二人とも“いちばん少ない”取り分になる……)
A子が考えを巡らせていると、神は畳みかけた。
「さあ、どうする。信じるか? 信じないか?
どちらにしても、お前次第だ」
お互いが自分の利益だけを見ていると、選択はギャンブルに近づいてしまう。
一方で、もし二人が協力して“信じない”を選べるなら、二人とも大きな利益を得られる。
しかし協力には、最低限の信頼の根拠が要る。
何も知らない者同士、しかも連絡も取れないとなれば、協力そのものが成立しにくい。
結果として、人は“確実そうに見える選択”へ寄っていく。
そしてその確実性は、しばしば最小の取り分と引き換えになる。
神の提案は、利益・信頼・協力のバランスの難しさを、冷たく映しているのかもしれない。
――信仰が“取引”になった瞬間から。