巨大な野良犬は、野良じゃない。
街の都合で、野良にされただけだ。――裏思考遊戯
都会の片隅に、異様に大きい野良犬がいた。
普通の犬の二倍はある。毛並みは荒れていて、目だけがやけに澄んでいる。
人は距離を取る。
噂だけが先に走る。
「危ない」
「噛まれたら終わり」
「誰かが処分しないと」
でも、その犬は誰にも飛びかからない。
ただ、夜の街を静かに歩いている。
逃げるようにではなく、居場所を探すみたいに。
A男は、たまたまその犬と目が合った。
背筋が寒くなるほど大きいのに、怖さより先に「目」が残った。
(助けて、じゃないな。
“見てくれ”って目だ)
A男はコンビニで買ったパンをちぎって差し出した。
犬は一歩下がり、匂いを嗅ぎ、また一歩下がる。
それでも、最後はゆっくり近づいて食べた。
A男は勝手に安心した。
そして勝手に、自分が良いことをした気になった。
その夜、A男は友人のB男に話した。
「でっかい野良犬がいる。怖がられてるけど、あれは違う。
目が、変だった。変っていうか……人間みたいだった」
B男は顔をしかめた。
「やめとけ。“危ない”って言われてるものに近づくな。
善意ってやつは、現実では一番脆い」
A男は笑った。
「大丈夫だって。あいつ、噛む気ないよ」
B男はため息をついた。
「噛む気があるかどうかじゃない。
“噛むかもしれない”ってラベルが貼られた時点で、もう終わりだ」
A男は、その言葉の意味が分からないまま流した。
数日後、犬は街の中心に出てきた。
いつもの静けさが嘘みたいに、犬は暴れていた。
正確には、暴れているように見えた。
前足を引きずり、身体を壁に擦りつけ、低く唸っている。
人は叫び、逃げ惑い、誰かが動画を撮る。
「ほら、危ない!」
「言った通りだ!」
「撃て!」
A男は人混みを割って前へ出た。
「おい!落ち着け!俺だ、覚えてるだろ!」
犬の目が一瞬だけA男を見る。
その目は、怒りじゃない。
痛みだった。
次の瞬間、乾いた音がした。
警察の発砲。
犬が崩れ落ちる。
街の空気が一気に冷える。
A男は走った。
膝をついて、犬の首元に手を伸ばす。
温度が、速い勢いで奪われていく。
「なんで……!やめろよ……!」
犬の耳の裏に、小さな金属のプレートが見えた。
文字が掘られている。
“PROTOTYPE”
番号。バーコード。
A男は息が止まった。
(野良じゃない)
犬の身体には、縫い跡があった。
毛の下に、雑に隠された切開の線。
そして首元に、チップのような膨らみ。
犬が最後にA男を見た。
まるで言う。
(やっと、見たな)
A男の喉が詰まる。
「ごめん。
俺、餌をあげたくらいで、分かった気になってた」
犬は目を閉じた。
後日、ニュースは短くまとめた。
「大型犬による騒動。警察が対応。市民に怪我なし。安心安全」
犬が何者だったかは、最初は出なかった。
だが、噂は漏れる。
研究所。実験。遺伝子操作。逃走個体。
「やっぱりな」
「危ないものは危ない」
「処分して正解」
A男は、その言葉が気持ち悪かった。
犬は危なかったのか。
それとも、危なく“された”のか。
B男が言った。
「これが“管理”だよ。
理解できないものは、分類して、封じて、処分する。
その方が楽だからな」
A男は唇を噛んだ。
「じゃあ、俺は何をすればよかったんだ」
B男は淡々と返す。
「正解はない。
でも一つだけ言える。
“かわいそう”で終わったら、また同じものが生まれる」
A男は考える。
科学の進歩か、倫理か。
正義か、安全か。
そんな立派な言葉の前に、もっと露骨なものがある。
都合だ。
都合の悪いものは、街から消える。
その消し方が、たまたま“安全”という言葉に包まれるだけ。
さて。
あなたが怖れているものは、本当に“危険”なのだろうか。
それとも、ただ 理解する手間を省きたい だけなのだろうか。
そしてあなたの“優しさ”は、
相手を救うためのものか。
それとも、自分の心を軽くするためのものか。
裏側を言う。
「野良」って言葉は便利だ。
責任の所在を消せるから。
飼い主がいない、管理者がいない、だから誰のせいでもない――にできる。
でも現実は逆だ。
“誰かが作ったのに、誰も引き取らない”
それが野良の正体だ。
A男がやったのは、優しさじゃなくてもいい。
ただ、見ただけだ。
それでも十分に危険だ。なぜなら、見たらもう、戻れないから。
見なければ、街は今日も「安心安全」で回る。
見てしまった人間だけが、胸の中でずっと鳴き声を聞くことになる。
その鳴き声を「かわいそう」で終わらせるか。
「次は作らせない」に変えるか。
そこが、人間側の分岐点だ。