「頑張った日は、ちょっといいものを食べていい」──A子はそう信じていた。味だけでなく、器や盛りつけ、光の入り方まで整えてからスマホを構え、“満足の形”をきちんと残すのが、いつもの流れだった。
一口の余りと、届かない空腹の距離を問いかける、余剰と犠牲をめぐる小さな思考遊戯。
A子は、今日もテーブルの上を整えてから食べ始めた。
湯気の立つスープは右、サラダは光が当たる角度に。皿の縁が写真に映えるように、フォークの向きまで直す。スマホの画面で一度確認して、ようやく一口目を頬張った。
遊んでいるわけじゃない。
この暮らしを続けるために、A子は仕事も精一杯やっている。残業も、休日の連絡も、飲み込んできた。だから「頑張った分だけ、少しだけ良いものを食べる」ことは、A子の中でちゃんとした“筋”だった。
そんなある日、ふと、目の前の一皿が不思議に見えた。
「これ、私の前に来るまでに、何人の手を通ってるんだろう」
気になって調べてみると、畑、加工、輸送、包装、棚、レジ――数え始めた途端に、桁が増えた。概算でも“何万人”。A子は箸を止めた。知らない人の手が、目に見えない列になって、自分の食卓まで伸びている気がした。
「私、食べる権利みたいなものを、受け取ってるんだな」
いつもより小さく「いただきます」と言って、噛んだ。
味が変わったわけじゃないのに、重みだけが増えた。
その夜、なんとなくテレビをつけると、ドキュメンタリー番組が始まっていた。
飢餓に苦しむ子どもたち。乾いた地面。空の皿。
ナレーションが「食べ物があっても、届かない場所がある」と静かに言う。
A子は、画面から目を離して、テーブルを見る。
仕事帰りに買った“新作”のお菓子が、きれいな包装のまま並んでいる。
「大変だな……私は恵まれてる。感謝しなくちゃ」
そう思いながら、A子は包装を剥がして、お菓子を口に運んだ。
甘さが広がる。テレビの音量を、少しだけ下げる。
もうひとつ、手が伸びる。
食卓の上には、A子ひとりでは食べきれない“少し多い分”が、今日も静かに残った。
それは、捨てるほどの量じゃない。
でも、なくても困らない量だった。
世界には、すべての人が満腹になれるだけの食料が「ある」と言われる一方で、満腹になる人と、飢えに苦しむ人が同時に存在している。
つまり「余って捨てられる食べ物」と「手を伸ばしても届かない空っぽの皿」が、同じ世界の、違う場所に並んでいる。
誰かに「食べる権利」が与えられていることは、その裏側で、必ず誰かが犠牲になっているという意味ではない。
けれど、流通の仕組み、価格、働き方、教育、政治、紛争、歴史的な力関係――そうした無数の“見えないルール”が積み重なることで、「あるところには余剰があふれ、ないところには何もない」状態が、結果として固定されてしまうことはある。
「限られているものに権利を与える」ことで、一部には安心して食卓を囲める人が生まれる。
だが、そのことだけで、飢えそのものが消えるわけではない。
むしろ余剰は、守られる側の食卓の上で静かに増えていき、足りなさは、遠くの知らない誰かの体の中で静かに積み重なっていくのかもしれない。
『誰かの皿の上の“少し多い分”は、誰の空の皿とつながっているのか』
そう問いかけても、画面の中の子どもたちは答えてくれない。
それでも、私たちが「当たり前にある」と思っている一口一口が、どんなバランスの上に乗っているのか――そこを一度だけ考えてみると、「余剰」と「犠牲」の意味は、少しだけ違って見えてくるのかもしれない。