犯罪が減るほど、人は自由を失うのか。自由を守るほど、人は不安を抱えるのか。管理をめぐる思考遊戯。
A男が住んでいる社会では、犯罪は激減していた。
理由は単純だった。「計画罪」という法案が成立したからである。
それは、計画したことはすべて提出する義務があり、違反すれば罰せられるという法律だった。
計画は未遂の前段階である。ならば、計画の時点で潰せばいい。
そういう発想で、未然に防げる確率は大幅に上がった。
やがて次は、突発的な犯罪が問題になった。
計画ではなく、衝動で起きるものだ。
そこで、日常生活を監視するシステムが誕生した。
それは人の行動や言動から、衝動が臨界点に近づく確率――突発率――が一定以上に上がった時、本人に警告が届く仕組みだった。
「今日は危険です。外出を控えてください」
「接触を避けてください」
「落ち着くための手順を実行してください」
確かに犯罪率は下がった。
ただし同時に、反対の声も爆発的に増えた。
「監視社会だ」
「プライバシー侵害だ」
運営側は説明した。
監視は人間が見るのではない。コンピューターが処理し、個人情報は厳重に保護されている。
誰が何を見たかではなく、そもそも誰も見ていない、と。
だが説明は無駄だった。
人々が嫌がったのは「見られる」ことだけではない。
“見られ得る”状態そのものだった。
そして誰しも、大なり小なりやましい気持ちがある。
「見られて困るほどのことはしていない」
そう言い切れる人間ほど少ない。
だからこそ、人々は管理を憎んだ。
ついに社会は、反動として極端に振れた。
監視を撤廃し、一切監視されない社会が誕生した。
すると人々は、安心して暮らせる社会を手放した代わりに、別の地獄を手に入れた。
おちおちしていられない。
常に緊張し、常に警戒し、常に自衛する生活である。
安全は自由を削る。
自由は安全を削る。
A男はその中間がどこにあるのか分からなくなっていた。
犯罪を、行動心理学とITの発展と融合で予測できたとする。
予測精度が上がれば上がるほど、「事前に止められる」という誘惑が強くなる。
そして予測確率が一定以上になった時、監視を強化する体制が生まれても不思議ではない。結果として、自由に制限が加わる可能性が出てくる。
だとすれば、自由であるためには慎む必要が出てくる。
だが「慎む」とは誰が決めるのか。
誰が、どこまでを危険と定義し、誰の生活を制限するのか。
自由とプライバシーの両立は可能なのだろうか。
もし管理が人間の手から離れ、利害や欲望の届かない“完全な管理コンピューター”が出現すれば別かもしれない。
しかし、その管理者が完全である保証はどこにもない。
結局、問われるのは管理の性能ではなく、管理を運用する側と受け入れる側の信頼なのだろう――という、最も難しい問題が残るのである。