見ているだけ。考えているだけ。触れていない。――それでも“浮気”は成立するのか。浮気をめぐる思考遊戯。
三人の女性が、同じテーブルを囲んでいた。
互いの悩みを、順番に差し出しては受け取り、少し軽くして帰るための時間である。
A子は、ため息をひとつ置いてからB子を見た。
「ねえ、聞いて。もう腹が立ってしょうがないの」
A子の彼は、他の女性ばかり見る。
街を歩けば目で追い、SNSを開けば女性の投稿や動画ばかり眺め、会話の途中でさえ、視線が外へ滑っていく。
「おまけにさ、話すと他の女の話ばっかり。可愛いとか、スタイルがどうとか。……それに、ポルノばっかり見てるの。頭の中もいつも不埒な想像ばっかりしてるって、平気で言うのよ」
A子は笑おうとして、笑えなかった。
笑い話にしたいのに、心が削られている自覚がある。
「B子の彼氏、羨ましい。だって一途なんでしょ?」
B子は少し照れたように目を伏せた。
「うん……うちの人ね、ほんと正反対。いつも私のことばっかり見てるの。『B子以外のことは考えられない』って言うし。ちょっと重いくらい」
A子はその言葉に、胸の奥がちくりとした。
自分にないものを見せつけられたようで、同時に救われたようでもあった。
その横で、C子は静かにカップを置いた。
二人の会話を聞きながら、何も言わない。言えないのではなく、言わない。
C子は知っていた。
A子の彼は、嘘をつくのが下手である。
浮気をする勇気もない。実際、一度もしたことがない。
ただ、目が泳ぎ、口が軽く、空想が先に走るだけだ。
一方で、B子の彼は、嘘をつくのが上手い。
“B子だけ”を見ている顔を、自然に作れる。
そしてそのまま、誰にも気づかれないよう隠れて、浮気ばかりしている。
C子は、その事実をいつ知ったのか、もう覚えていなかった。
偶然か、勘か、目撃か。
いずれにせよ、C子の中では既に「確定」していた。
A子が言う。
「私、別れた方がいいのかな。こんなの、浮気と同じでしょ?」
B子が言う。
「ひどいよね。私なら耐えられないかも」
C子は、喉まで上がってきた言葉を一度飲み込んだ。
正しさを言えば、ここで何かを壊す。
黙れば、何かが育つ。
結局、C子はこうだけ言った。
「……ねえ、“浮気”って、何だと思う?」
二人はきょとんとした。
「だって、浮気は浮気でしょ」とA子は言いかけ、言葉を止めた。
B子も、同じように止まった。
A子の彼は、触れていない。会ってもいない。
だが、A子の心は毎日裏切られている。
B子の彼は、言葉の上では誠実だ。
だが、その誠実さが一番大きな嘘でもある。
C子は笑わなかった。
ただ、二人の顔を見て、静かに思った。
このテーブルの上には、まだ出されていない“現実”がある。
そして現実は、いつも最初に、言葉の形でやって来るとは限らない。
「どちらが浮気であるか」という問いは、意外に簡単には終わらない。
行為がないなら浮気ではない、という基準もある。だが、心が踏みにじられているなら浮気である、という基準もある。さらに、嘘が巧妙であればあるほど、裏切りは“存在しないもの”として扱われてしまう。
つまり、浮気とは行為だけではなく、嘘・視線・想像・優先順位・隠蔽といった複数の要素で成立する概念である。
触れていなくても、相手の尊厳を継続的に削るなら、それは裏切りと呼ばれ得る。
触れていても、巧妙に隠して「問題がない形」を保てるなら、それは裏切りでないのか――という倒錯も起きる。
ここで浮かぶのが、「バレなきゃいいのか?」という疑問である。
もし「バレなければ問題ではない」という基準を採用すると、裏切りは道徳の問題ではなく、発覚を避ける技術の問題へ変質する。嘘が上手い者ほど得をし、正直な者ほど損をする構造が成立してしまう。誠実さが価値として残りにくくなるのは、この構造が静かに広がるからである。
結局、問うべきはこうである。
相手が合意していない形で、何を奪ったのか。
安心か、信頼か、自己価値か、あるいは選ぶ自由か。
浮気は、肉体の出来事である前に、関係の契約を破る出来事である。
では、契約を破ったのは誰なのか。
嘘のない欲望か、嘘で包んだ行為か。
そして、その境界を決めるのは「バレるかどうか」ではなく、知ったうえで同意できるかどうかなのかもしれない。