褒め言葉は、薬じゃない。鎖だ――裏思考遊戯。
都市の中心に、巨大な企業がある。
ビルはガラスで、光は綺麗で、働く人間は均一に整っている。
この会社には、目に見えない通貨が流れている。
功績。
A男はそこで働いていた。勤勉で、頭も回り、結果も出す。
数字が上がるたび、周りの表情が変わる。
「あいつは使える」
「任せて安心」
「次も頼む」
褒められるたび、体が少し軽くなる。
軽くなるのに、なぜか呼吸が浅くなる。
ある日、A男は社長室に呼ばれた。
社長は笑っていた。優しい笑顔。だが優しさは、いつも要求の前座だ。
「君の功績は素晴らしい。期待を超えている。
だから次は、それに見合った責任を頼む」
A男は「ありがとうございます」と言った。
言った瞬間、胸の奥で何かが沈んだ。
責任。
それは褒められた者に与えられる“ご褒美”の顔をした追加課金だ。
それからA男は、さらに結果を出した。
出さないと落ちる気がした。
落ちたら、価値が消える気がした。
仕事は完璧を求められる。
いや、完璧じゃない。もっと厄介だ。
「前回はできたよね?」という基準。
一度できたことは、次から当然になる。
当然になった瞬間、功績は功績じゃなくなる。
ただの“最低ライン”になる。
A男は気づいていた。
気づいているのに、止まれなかった。
夜も、休日も、頭の中で数字が鳴る。
通知が来ていないのに、通知音が聞こえる。
寝ようとすると、社長の笑顔が浮かぶ。
「期待してるよ」
その言葉は、励ましじゃない。
監視の合図だ。
ある晩、A男は自宅のソファに沈み込んでいた。
部屋には賞状やトロフィーが並んでいる。
光を反射して、やけに眩しい。
なのに、何も感じない。
むしろ、吐き気に近いものが出てくる。
功績が増えるほど、自由が減る。
功績が積み上がるほど、休めなくなる。
功績が名前になり、名前が檻になる。
そこへ、友人のB男が来た。
A男の顔を見て、B男は言った。
「お前、死んでるみたいな顔してる」
A男は笑おうとして失敗した。
「功績を上げるって、こんなに苦しいんだな」
B男は賞状を一枚手に取り、軽く揺らした。
「功績って、何だと思う?」
A男は答えた。
「結果。評価。信用……」
B男は首を振った。
「会社にとっては違う。功績は請求書だ。
“君はできる”って言葉で、未来の労働を前借りする」
A男の喉が鳴った。
「じゃあ、どうすればいい」
B男は淡々と言った。
「まず一つ、覚えとけ。
功績は増えるほど幸せになるとは限らない。
増えた功績は、お前の価値じゃなくて、お前の使用量になることがある」
A男は黙った。
痛いほど当たっていた。
B男は続けた。
「お前は今、“功績がある自分”を守るために働いてる。
でもそれは、功績がない自分を嫌ってるってことだ」
A男の目が揺れた。
「……じゃあ、俺は何のために頑張ってきたんだ」
B男は静かに言った。
「褒められたかったんだろ。
必要とされたかったんだろ。
それ自体は悪くない。
でも、それしか拠り所がないと、褒め言葉が鎖になる」
A男はトロフィーを見た。
金色の表面に、自分の顔が歪んで映っていた。
B男が言った。
「明日、試せ。
いつも通りじゃなくていい。八割で出せ。
“できません”を一回言え。
その瞬間に起きるパニックが、お前の鎖の正体だ」
A男は息を吐いた。
怖い。
でも、その怖さは、森の怪物より現実だった。
翌日。
A男は、完璧に仕上げる前に提出した。
そして一件、引き受けを断った。
社内の空気が薄くなる。
笑顔が減る。
視線が増える。
誰かが言う。
「最近、落ちた?」
その一言が、刃物みたいに刺さる。
胸がざわつく。手が震える。
取り戻したくなる。
“元の自分”に戻って、また褒められたくなる。
その瞬間、A男は理解した。
これがパニックだ。
功績を失う恐怖じゃない。
功績でしか自分を支えられない恐怖だ。
A男はトイレの鏡を見た。
目が赤い。
だが、ほんの少しだけ、目の奥が生きていた。
功績を減らしても、死なない。
評価が揺れても、崩れない。
崩れると思い込んでいたのは、自分の契約だった。
A男は帰宅して、賞状とトロフィーを段ボールに入れた。
捨てない。燃やさない。
ただ、視界から外す。
そして、机の上に紙を置いた。
そこに一行だけ書いた。
「俺は功績じゃない」
さて。
あなたの功績は、あなたを自由にしているだろうか。
それとも、あなたを縛っているだろうか。
あなたは、誰の期待を守るために頑張っている?
そして、何を失いかけている?
裏を言う。
功績は“成果”の顔をしているが、時々“支配”の顔をする。
功績が増えるほど、周囲は言う。
「次も」
「もっと」
「当然」
この三つが揃った瞬間、功績は祝福じゃなく、基準の更新になる。
そして恐ろしいのはここだ。
基準が上がると、人は「自分の価値」も上がったと錯覚する。
だから必死になる。
価値を守るために。
でも実際に上がっているのは、価値じゃない。負荷だ。
功績パニックの正体は、これ。
功績がない自分=無価値、という思い込み
褒められない=消える、という恐怖
だから功績を積む=安心、という契約
この契約を破る方法は、派手じゃない。
一回の革命じゃなく、小さな不完全の積み重ねだ。
八割で出す。
断る。
休む。
褒められなくても、自分を見捨てない。
功績は大事だ。
でも功績を“アイデンティティ”にすると、功績は牙をむく。
最後に一つだけ。
功績がある人ほど、功績がなくなるのが怖い。
怖いのは当然だ。
だからこそ、その怖さを理由に、自分を奴隷にしないこと。
あなたは功績を持っている。
でも、あなたは功績ではない。