ネットでは、ときどき強い言葉が飛び交います。
「殺してやる」「消えてほしい」
そんな言葉は、驚くほど簡単に使われてしまう。
でも現実では、そこまで多くの殺人事件が起きているわけではない。
このズレが、私にはずっと不思議でした。
言葉は荒れるのに、世界は意外と崩れない。
意外と、持ちこたえている。
その理由を考えると、まず思い浮かぶのは、仕組みです。
法律、ルール、監視、記録、責任。
社会には、人が一線を越えないようにできた「秩序」がある。
私たちは、それに守られている。
けれど、それだけでは説明しきれない気もします。
秩序があるから越えない、というより、
越えない人が多いから秩序が機能しているようにも見える。
つまり、ここにはもう一つ支えがある。
人は、捨てたもんじゃない。
日常には、戻りたい場所がある。
守りたいものがある。
失いたくない関係がある。
その当たり前が、強い言葉よりも強い。
だから、ふと思います。
「乱暴に言えば、今日も誰かが生きているのは、誰かが一線を越えなかったからだ。」
この言葉は乱暴に見えるけれど、裏返すとこうなる。
・私は、一線を越えなかった
・そして、相手も越えてこなかった
・今日も世界は、ぎりぎりのところで保たれている
その事実に、少しだけ息をのむことがあります。
人は、思う以上に他人を傷つけられる。
同時に、人は、思う以上に傷つけないでいられる。
自制は、精神論だけではなく、
環境や距離や習慣や制度の上で成立しているのかもしれない。
そして感謝もまた、平和な日常の中で育つものなのかもしれない。
今日も「しなかった」こと。
今日も「されなかった」こと。
秩序に守られている。
それ以上に、人が踏みとどまっている。
そう思えた瞬間、世界が少しだけ違って見えました。