同じ「献身」でも、手段が違えば世界の見え方は正反対になる。献身をめぐる思考遊戯。
A子は、教団にすべてを捧げていた。
教団の知名度を上げるために仕事に打ち込み、空いた時間は悩んでいる人に耳を傾け、布教に努めた。
結婚もしない。趣味も削る。休息も削る。
自分の輪郭が薄くなるほど、教団の輪郭を濃くしていく生き方である。
A子は言う。
「私はただ、救いたいだけよ」
その言葉は、疑いの入り込む隙がないほど真っ直ぐだった。
だからこそ人は安心し、A子を信じた。
やがてA子は、周囲から「本物」と呼ばれるようになった。
B子は、所属する教団こそ違ったが、ずっとA子の姿を見てきた。
見ているうちに、B子の中でA子は、ひとつの基準になっていた。
「あの人ほど捧げられる人がいるのなら、世界は変えられる」
B子はA子を全面的に信頼していた。
信頼は、憧れに似ている。憧れは、焦りにも似ている。
そして焦りは、いつか「もっと」を求め始める。
B子は思った。
「私も、A子さん以上に、この身を捧げたい」
B子は、人生のすべてを捧げることで、少しでも何かを変えたかった。
目に見える形で。誰の目にも分かる形で。
「私はここまでやった」と言い切れる形で。
長い時間を捧げ続けるA子の献身は、美しく見えた。
だがB子には、それが遠かった。
結果が出るまで待てない。理解されるまで耐えられない。
何より、自分の中の空白を、今すぐ埋めたかった。
そしてB子は、選んだ。
B子は人間爆弾として、その身を捧げたのだった。
その瞬間、B子の中で「捧げる」は完成した。
A子のように積み上げるのではなく、一度で終わらせる形で。
時間を捧げるのではなく、命を捧げる形で。
手段は違う。
だが、言葉だけは同じだった。
相手の考えを非難するのは簡単である。極端に言えば、自爆テロを非難することもできる。
他者を犠牲にすることは非難すべきである。これは分かりやすい。だからなおさら断罪しやすい。
では、それは身近では起きていないのか。
そう問うと、急に曖昧になる。
捧げている時間の長さだけで見れば、長生きしながら人生の多くの時間を捧げている熱心な信者の方が、貢献していると言えるかもしれない。社会の中で地道に人を集め、空気を作り、影響を増やすからである。
とはいえ、時間の尺度ではなく「人生を捧げる」という意味においては、それほど変わらないのではないか、という疑問も残る。
違うのは、結果の出方であり、速度であり、被害の現れ方である。
手段の相違が、同じ言葉をまったく別物に見せているだけかもしれない。
考えが違うというだけで拒絶するなら、相手を理解することはおぼつかない。
相手に要求を出す、あるいは変えたいのであれば、相手の立場に立って理解する必要が出てくる。できない場合、状況は悪化する可能性が高い。
だからこそ問うべきは、断罪の前の一言である。
「なぜ、その選択に至ったのか」
この問いが、理解の手助けになることもある。
もっとも、スピードが加速する社会の中で、じっくり向き合えるかどうかは別問題であるが。