「自分」とは何でできているのか。身体か、記憶か、それとも“続いてきた時間”か。もし同じ自分が二人になったら、答えは急に現実味を帯びる。そんな思考遊戯。
Aは、謙虚な性格だった。
控えめで、誰かを押しのけてまで前に出ることはない。
それが周囲からの信頼を集め、Aの仕事は静かに積み上がっていった。
ある日、Aは命に関わる大事故に遭った。
医師は家族に言った。
「……正直、助かる見込みは高くありません」
だがその時代には、生命科学が進みすぎていた。
万が一に備え、Aの“完全なコピー”を作ることができたのだ。
決定は早かった。
Aのコピーは、Aと同じ顔、同じ声、同じ指紋で目を覚ました。
ところが――問題が起きた。
「奇跡です。オリジナルのAが助かりました」
生きているAがいる。
そして、同じAも、すでに生きている。
誰かが言った。
「どちらか一人にしてもらわないと困る」
言葉は穏やかでも、意味は残酷だった。
Aとコピーは、向き合って座った。
鏡が二つ並んだような光景だった。
コピーのAが、先に頭を下げた。
「君がオリジナルだ。僕は……消えても文句は言えない」
すると、オリジナルのAも同じ角度で頭を下げた。
「いや、僕は本来ここで死ぬはずだった人間だ。
君は何も悪くない。僕が消えるべきなんだよ」
二人とも、同じ理屈で譲らなかった。
謙虚さまで同じだった。
議論を続けるほど、答えは遠ざかった。
「命がある」こと自体が、すでに正しいのに。
その正しさの中で、二人は行き止まりになっていた。
そこで二人は、ある結論に辿り着く。
「……別々の人生を歩こう」
名前を変える。
顔も少し変える。
経歴も、住む街も、関わる人も、すべて変える。
そうすれば、“誰かが消える”という結末を避けられる。
二人は約束した。
互いの存在を、互いの人生から追い出すのではなく、守るために離れるのだと。
――そして三十年後。
ある大きな仕事で、二人は偶然同じチームになった。
一人は、鋭い判断で現場を動かす男になっていた。
もう一人は、誠実な交渉で人をまとめる男になっていた。
二人は初対面のはずなのに、不思議と話が噛み合った。
結論までの道筋が似ているのに、選ぶ手段は違った。
「あなたのその考え方、面白いですね」
「そちらこそ。なぜか信頼できます」
プロジェクトは成功し、打ち上げの席で二人は握手を交わした。
その瞬間、どちらも胸の奥に小さな違和感が走った。
なつかしいような、怖いような。
だが、言葉にはならなかった。
整形も、名も、肩書きも、人生の積み重ねも、二人の“輪郭”を完全に変えていた。
結局、二人は最後まで気づかなかった。
目の前の相手が、かつて“自分”だったことに。
別れ際、片方が笑って言った。
「また一緒に仕事ができたらいいですね」
もう片方も笑って答えた。
「ええ。きっと、うまくいく気がします」
そして二人は、それぞれの帰る場所へ戻っていった。
同じ始点から生まれたとは思えないほど、違う歩幅で。
元が同じ人間でも、環境が変われば性格は変わり得る。
その人が何を見て、誰と出会い、何を選び続けたか――その“経過”が、本人を形作っていく。
考えてみれば、私たちは誰でも「昨日の自分」と完全に同一ではない。
身体は同じでも、記憶は増え、価値観は微妙にずれ、譲れないものも変わる。
それでも私たちは「私は私だ」と言う。
その根拠は、もしかすると“継続してきた感覚”にあるのかもしれない。
だからこそ、この話の二人は、互いに気づかなかった。
顔が違うからでも、名前が違うからでもない。
三十年分の人生が、別の人間を完成させてしまったからだ。
では、もし――
一人の人間を、七十億コピーしたらどうなるだろう?
全員が「自分こそ本物だ」と感じるだろう。
そして、その全員が、ある意味で正しい。
そのとき“本物”とは、いったい何なのか。
最初の一人を指す言葉なのか。
それとも、続いてきた経過そのものを指す言葉なのか。
もしあなたが、あなたの完全な複製と向き合ったら――
あなたは、どちらの人生を「生きていい」と言えるでしょうか。