習慣をめぐる思考遊戯。
カオリは、遺伝業界の記事を書きかけたまま、画面を暗くしていた。
真実を武器にできることも。透明性がコンテンツになることも。
そして何より、告発が「入口を広げる」ことも、もう知っている。
その夜、メールが届いた。
件名は、短い。
「反射的な日課」
カオリは、息を止めて開いた。
カオリさん、
最近の記事を読み、感銘を受けました。
今回は「反射的な日課」について書いてみてください。
私たちが無意識に行う習慣が、どれほどの影響を持つのか。
考えたことはありますか?
成功を祈っています。
匿名
感銘。成功。祈っています。
いつもの言葉だ。
だが、今回は違った。
「反射」という単語が、遺伝業界の記事よりも、生々しく響いた。
——塾の先生は、言った。
「才能より、反射です」と。
カオリは、画面を閉じた。
閉じたまま、確信だけが残った。
送り主は、塾の先生だ。
翌日、カオリは先生に連絡を入れた。
「少し話せませんか」
それだけで、向こうは時間と場所を指定してきた。
その夜、カオリはカフェの薄暗い席で、先生と向かい合った。
照明が柔らかいぶん、沈黙は硬く見えた。
カオリは、短く切り出した。
「あなたが、匿名のメールを送っていたんですね?」
先生の目が、一瞬だけ動いた。
驚いたようにも見えたが、それより先に、諦めが浮かんだ。
「……そうです」
カオリは息を飲んだ。
自分の推理が当たった嬉しさではなく、
当たってしまったことの冷たさで。
「なぜ、こんなことを?」
先生は、カップを置いた。音が小さいのに、やけに響いた。
「あなたの文章は、反射が良い。
言い換えると、習慣が強い。続けられる人です」
褒め言葉に聞こえるのに、背中が冷えた。
続けられる。反射が良い。
それはつまり、誘導が効くという意味にもなる。
カオリは言った。
「遺伝業界の資料……あれは何ですか」
先生の顔が、わずかに曇った。
そこで初めて、彼が“先生”ではなく、別の役割を持っていることが見えた。
「私は研究をしています。
倫理的に問題があることも承知しています」
カオリは喉が乾いた。
カフェの空気が急に薄くなる。
「子どもたちに……何を?」
先生は、目を伏せたまま言った。
「“能力”という言葉は、いつも汚れます。
でも、親は不安を減らしたい。子どもを守りたい。
その気持ちは本物です」
カオリは、机の下で手を握った。
本物の気持ちが、本物の入口になる。
それを分かった上で利用する人間がいる。
そして、それを正当化できる言葉が、世の中には山ほどある。
先生は続けた。
「あなたなら、真実を追えると思った。
だから、テーマを渡した。あなたの反射を鍛えるために」
——鍛える。
その言葉が、最悪に優しかった。
カオリは、静かに言った。
「それは、私を“使った”ということですよね」
先生は否定しなかった。
「使ったのか、導いたのか。
その区別は、あなたが決めればいい」
カオリは笑いそうになった。
決めろ、と言う。選べ、と言う。
最後に責任だけをこちらへ渡す。
それが、今までカオリが読者にやってきたことと、同じ形だったから。
帰り道、カオリはスマホを見なかった。
見れば、また入口が開く。
見ないために、ポケットの中で電源を落とした。
家に着くと、カオリはノートPCを開いた。
だが、遺伝業界の記事には戻らなかった。
代わりに、新規投稿を開き、タイトルだけを打った。
反射的な日課
本文は、いつもより短かった。
説明も、結論も、SEOも捨てた。
カオリは書いた。
―――――
反射的な日課
私たちの生活は、無意識の選択と習慣で形作られている。
それは便利だ。考えなくて済む。迷わなくて済む。
でも、習慣は時々、こちらの手を勝手に動かす。
「守りたい」
「不安を減らしたい」
「正しくありたい」
その気持ちが本物であるほど、入口は静かに開く。
あなたが今日も同じように繰り返したことは、
あなたが選んだことだろうか。
それとも、誰かが用意した安心の形に、反射しただけだろうか。
―――――
公開ボタンを押したあと、カオリは初めて、ほんの少しだけ楽になった。
記事が伸びるかどうかではない。
誰かにどう見られるかでもない。
自分の手が、どこへ伸びているのかを、やっと見た気がした。
その夜、メールは来なかった。
来ないことが、少し怖くて。
でも同時に、少しだけ、安心した。
―――――
習慣は、私たちを守る。
同時に、私たちを運ぶ。
そして運ばれた先が「自分の意思」だったかどうかは、案外あとでしか分からない。
あなたが反射的に続けている日課は、何だろうか。
それは、あなたを自由にしているだろうか。
それとも、誰かの用意した入口を、毎日静かに開いているだけだろうか。
(連載・終)