どんなに美しい教えも、解釈ひとつで狂気の免罪符になる──そんな仮想セミナーの思考遊戯。
A子は、長いあいだ自分の「超」がつくほどのマイナス思考に、すっかり疲れ切っていた。
このままじゃいけない。けれど、どう変わればいいのかもわからない。
藁にもすがる思いで、評判のカウンセラーが主催する
自己啓発セミナー「前向きに生きるためのセミナー」に申し込んだ。
会場は、熱気に満ちていた。
スクリーンには、有名な名言が次々と映し出される。
自分を信じて、望む未来をつかみ取りましょう。
あなたには、その価値がある。
拍手が起こり、隣の席の男性は静かに目を閉じて、その言葉を噛みしめている。
それなのに、A子の胸には、ふとひっかかりが生まれた。
――何か、おかしい。
その「おかしさ」が何なのか言葉にならないまま、セミナーは終わった。
家に帰り、配られたパンフレットをなんとなく読み返していたときだ。
表紙のタイトルの下、ほとんど飾りのような小さな文字が目に入った。
〜シリアルキラーのための〜
※関係者以外の使用を禁じます
A子は息を飲んだ。
シリアルキラーにとって「前向きに生きる」とは、
人を殺める自分を、誇りをもって受け入れることなのかもしれない。
あるいは、連続殺人犯に限らず、
人を傷つけたり支配することでしか安心できない人たちの、
「本来の自分を取り戻す」ためのセミナーなのだろうか――。
同じ言葉でも、そこに乗せられる「目的」が違えば、
意味はまったく別のものに変わってしまう。
数日後。
A子は、あの違和感の正体を確かめたくて、
セミナーで隣の席だった男性に連絡をとってみた。
彼は最初から明るくて、冗談もよく言うタイプで、
自己啓発セミナーとは無縁に見える人だった。
「セミナー、どうでした?
最初お会いしたときから、十分明るくて前向きに見えたから……
正直、必要なかったんじゃないかなって思って」
電話口で、彼は一瞬だけ黙り込んだ。
すぐに、低く笑う声が聞こえた。
「そんなふうに見えてたんだ。ふふ……それは嬉しいね。
でもさ、あの自己啓発セミナー、本当に行ってよかったよ。
このままだと、自分を押さえつけられたまま
ずっと窒息して生きるところだったからさ。
やっと、本来の自分に戻れそうな気がしてる」
声のトーンが、ほんの少しだけ落ちた気がした。
「孔子の言葉、覚えてる?
『自分がしてほしくないことを、人にするべきではない』ってやつ。
あれ、正直ゾクッとしたんだ。
だってさ、誰だって罰せられるのは嫌だろう?
だったら、人は人を罰するべきじゃない。
誰も、誰のことも裁けないって考えたら……
ずいぶん身軽になれると思わない?」
そこで彼は、少し弾んだ声で続けた。
「それにね、前向きに生きろって何度も言ってただろう?
あれを聞いてさ、はっきり決めたんだ。
これからは、もっと前向きに、自分が本当にしたいことをしていこうって。
周りにどう思われるかじゃなくて、
自分の望むことに正直でいていいんだって、やっと納得できたんだよね。
誰かに止められる筋合いなんてないんだ、ってさ。
これで、もう迷わずにすみそうなんだ」
言葉の内容に反して、その声は妙に穏やかで、落ち着いていた。
A子は、その「前向き」が、自分の想像していた方向とは
まったく別の場所に向かっているのだと、直感した。
返す言葉を見失ったまま、会話は当たり障りのない雑談にすり替わり、やがて終わった。
電話を切ったあと、部屋の空気が急に薄くなったように感じる。
窓は開いているのに、呼吸がうまくできない。
どんなに美しい言葉でも、
それを「何のために」使うのかを問われないまま手渡されたとき、
その言葉は、受け取った人の手の中でどんな形に変わっていくのか──。
A子は、パンフレットの小さな文字
「シリアルキラーのための」を思い出しながら、
胸の中で膨らんでいく不安の正体に、まだうまく名前をつけられないでいた。
現実に「シリアルキラーのための自己啓発セミナー」が
堂々とパンフレットに書かれていることは、まず無いだろう。
ここでの「シリアルキラー」は、極端な記号として登場させている。
けれど、連続殺人犯を追ってきた元FBI捜査官の本には、
こんな話が紹介されていた。
彼らの中には、脳や思考の構造の違いから、
一般的なカウンセリングがまったく機能しないどころか、
かえって犯罪への動機づけになってしまうケースがあるという。
そしてそれは、必ずしも劇的な犯罪だけを意味しないのかもしれない。
人を傷つけること
他者を支配すること
誰かを追い詰めることで、安心や快感を得てしまうこと
そうした傾向を持つ人が、自己啓発や名言を
「自分は間違っていない」と確信するための材料として解釈してしまえば、
美しい言葉は、そのまま加害の免罪符にもなりうる。
どんな言葉も、どんな教えも、最後は「解釈」によって変質しうる。
励ましの言葉が、人によっては
「前向きに、やりたいことを貫け」という合図として働いてしまうことさえある。
だからこそ、教えの中身だけでなく、
それを受け取っている「自分」というフィルターを疑ってみることから、
本当の意味での学びが始まるのかもしれない。