恐怖を消せば強くなれる。そう信じた教育が、最も大事な“尺度”を壊してしまう――感覚と言葉をめぐる小さな思考遊戯。
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A男は、子どもの頃から英才教育を受けていた。
それは「恐怖を感じないようにする」「度胸を付ける」ための教育だった。
凄まじい環境で育った結果、A男は痛みや苦しみを、ほとんど感じなくなった。
そのおかげで能力を最大限に発揮する術を身につけ、肉体を駆使する大会で数々の賞を取った。
どんな時でも動じない。
自信に満ちた態度で堂々と話す。
挑戦を恐れない。
A男はメディアでも引っ張りだこになった。
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ところがある日、A男は、いつものように怯まず挑戦した。
だが今回は違った。
A男は人に助けを求めなかった。
求める必要がないと思っていた。
そして、気づかないうちに、取り返しのつかない事故が起きた。
A男は恐怖や痛み、苦しみを感じる機能が麻痺していたことで、
自分の限界を測る尺度そのものが壊れていたのだった。
痛みは、弱さではなく、警報だった。
恐怖は、逃げの感情ではなく、地図だった。
それが消えた人間は、進み続けられる代わりに、止まれない。
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言葉は、伝達のために生まれた。
伝達できれば、助けや協力を求められる。
たとえば「痛い」という言葉は、痛みという感覚のラベルだ。
けれど、言葉だけを受け取ると、同じ「痛い」でも中身は人によって違う。
訓練で痛みに強い人には「痛くない」に近いかもしれない。
油断してぶつけた人には「激痛」に感じるかもしれない。
大手術のように命に関わる場面では、痛みを“麻痺させる必要”すら出てくる。
それでも、「痛い!」と声が出れば――
周囲は 「助けが必要かもしれない」 と判断できる。
完全な理解ではなくても、行動を引き出せる。
言葉は、感覚を100%再現するためではなく、次の一手を呼ぶために働くことがある。
同じように「暑いな〜」という独り言も、ただ状況を言っているだけに見える。
でもそれは、もしかすると「危険かもしれない」という防衛本能が、周囲や自分に向けて出している小さな信号かもしれない。
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ただし、言葉は万能ではない。
むしろ言葉が増えるほど、誤解も増える。
「分かるよ」
その一言で救われることもある。
一つ一つの言葉にうなずかれ、目を見て微笑まれれば、人は安心する。
けれど同時に、それは危うい。
相手が本当は別の目的で近づいていても、気づけないことがある。
気づいたとしても「理解してもらえた」という安心が勝って、身を委ねてしまうことさえある。
つまり言葉は、助けにもなるが、操作にもなり得る。
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そして最後に、ここがいちばん皮肉だ。
感覚を言葉で正確に伝えようとすればするほど、
「伝わった?」「どこまで?」「どう伝わった?」と確認が増え、
確認が確認を呼ぶループになりやすい。
それでも人は、言葉を捨てない。
伝わらないと分かっていても、伝えようとする。
その無限の試みが、ときに混乱と混沌を生む一方で――
芸術のようなものを生むこともあるのかもしれない。
では、あなたが本当に欲しいのは、
「完全な理解」だろうか。
それとも、完全ではなくても手を差し伸べてもらえる “姿勢” だろうか。