「邪宗」という言葉を耳にすると、私はいつも引っかかる。
それは本来、考え方の違いを指す分類のはずなのに、現実では“個人”に向けて投げられやすいからだ。
そして個人に向けられた瞬間、その言葉は分類ではなくなる。
人を矮小化する。
人を傷つける。
ときに、人を社会から追い出すための道具にもなる。
これは否定ではない。疑問だ。
「正しさ」を掲げた瞬間、どうして人は他人を切りたくなるのだろう。
宗教の話題は、慎重さがいる。
信仰は、誰かにとって人生の支えであり、祈りであり、救いだからだ。
でも、その宗教の名が“偏見”と結びついたとき、空気は変わる。
「正しい側」と「間違った側」を作り、
相手を理解する前に、遠ざける理由として使われる。
正しいものを広める目的だと言うなら、最低限、相手を思いやる心が必要だ。
思いやりがない「正しさ」は、正しさではなく、ただの攻撃になる。
本当は単純な話かもしれない。
「嫌い」「怖い」「理解できない」
その感情を、そのまま引き受けるのは難しい。
だから人は、ときに宗教を利用して、
「私は正しいことを言っている」と思いたくなる。
好き嫌いを、正義の衣で誤魔化す。
その瞬間、言葉は“相手を見ないための盾”になる。
盾になった正義は、温かさを切り裂く。
もし、世界のどの宗教にも共通する「邪」があるとしたら、
それは教義ではなく、もっと手前のものかもしれない。
権力の魔性。
権力といっても、政治や上位管理者になりたい、だけではない。
多くのファンを獲得したい。
信者を増やしたい。
支持されたい。
称賛されたい。
その意味では、再生回数、視聴率、購買数、売上数。
メディアやビジネスの数字も、同じ匂いを持つことがある。
分析のために数字を見ることと、
数字を“目的”にしてしまうことは違う。
目的になった瞬間、人は権力の魔性を呼び起こしやすい。
一度、味をしめたらやめられない。
麻薬のように。
「もっと」だけが残り、他人を人として見る目が薄くなる。
現代の法律は、平等を謳う。
そして多くの場合、「邪な考え」を持つだけでは裁けない。
行動に移し、他者に迷惑や害を与えたときに、初めて線が引かれる。
でも、だからといって何を言ってもいいわけではない。
言論の自由を盾にして発言することはできても、
相手を傷つけていいとは限らない。
むしろ、ここが怖い。
行動として裁かれない分、
言葉の刃は、静かに人の心へ刺さる。
「邪宗」と個人に放った瞬間、
それは相手の心に“面枠”をかける行為になり得る。
もう一人の人間ではなく、ラベルとして扱うということだから。
正しいか、間違っているか。
それを決めることで安心したい気持ちは分かる。
でも、私が守りたかったものは、そこではなかった。
正も邪もなく、そこにあるのは一人の人間として、
どう手を差し伸べられるか、ということ。
まずは譲ってあげられるようになる。
そして、お礼に頭をそっと下げられるようになる。
できる範囲で十分だ。
安易な言葉で相手を切るより、余程価値がある。
正義の言葉を振りかざして、温かい世の中を切り裂くようなことは避けたい。
そう。
私が守りたかったもの。
それが、温かさに包まれたものだったから。
最後に、問いを置いておく。
その言葉は、正しさを守っているのだろうか。
それとも――温かさを失わないための道を、切ってしまってはいないだろうか。