芸術は“作ること”なのか、“見つけること”なのか。価値の正体をめぐる思考遊戯。
Aは無名な芸術家だった。
寝る間を惜しんで作品作りに勤しんでいたが、評価される機会は一向に訪れなかった。
努力は報われない。
そう言い聞かせても、手は止まらなかった。止めた瞬間、自分が空っぽになる気がしたからだ。
そんなある日、はじめてAの作品が認められた。
しかも、その作品には十億円の値が付いた。
Aは思った。
「これで、一生暮らしていける」
安心したからだろうか。刺激が薄れたからだろうか。
それ以降、Aから“認められるような作品”が出ることはなかった。
とはいえ、Aは著名な芸術家となった。
新作を出す度に一定のファンが買い、作品にはそこそこの値が付いた。
Aは、食べていけた。
そして、食べていけることに慣れていった。
そんなある日のこと、Aはスキャンダルにさらされる。
唯一、十億円の価値があると思われたあの作品が、
実は、Aが全く手を加えていない自然の石だったというのだ。
「何もしていないものに金を払ったのか」
入手した者は激怒し、クレームを申し立てた。
Aは落ち着いた声で言った。
「確かに私は、何も手を加えていません」
「しかしながら、それを発見したのは私なのです」
「その証拠に――私のサインが書いてあるでしょう」
買った者は言葉を失った。
石は、ただそこにあったのではない。
Aの名と物語によって、“作品”になってしまっていた。
芸術の定義は難しい。
この話は極端かもしれないが、例えば石をいくつか並べただけで、それを自作の芸術だと主張した場合、「並べただけ」だとしても成立してしまうことがある。
それでも、「何も手を加えていない」となると、違和感を覚える者は多いだろう。
では、どこからが芸術なのか。
作曲も、突き詰めれば音を並び替えたに過ぎない。
絵も、色を配置したに過ぎない。
それでも芸術として成立するのは、配置そのものが“意味”を生むからだと言える。
だとすれば、自然の石であっても、「これは作品だ」と提示された瞬間に意味が発生し、芸術になるのかもしれない。
逆に言えば、自然そのものが既に芸術であり、人間はただ“見つけて名札を付けているだけ”なのかもしれない。
それを薄っぺらいと思うなら、人間のエゴがそう思わせているのだろう。
芸術と芸術品は一文字しか違わないが、価値が人によって決まるのだとしたら、その一文字は大きい。
結局のところ、価値は作品の中だけでは完結しない。
見る者の数、語られる物語、権威、空気――多数決に似た仕組みで、価値は「事実」になってしまうことがある。
そして、その事実が出来上がった後では、
「作ったかどうか」よりも、「そう見えるかどうか」が勝ってしまうこともあるのだろう……。