それは浄化じゃない。自分を削る儀式だ――裏思考遊戯。
高層ビルの影に、小さなコーヒーショップがあった。
夜になると、そこは避難所みたいになる。
帰りたくない者、眠れない者、言葉を失った者が、静かな音楽とコーヒーの匂いに紛れて座っている。
ある晩、A男が入ってきた。
古びたペンを握りしめ、ノートを開くなり、同じ場所にペン先を当てた。
擦る。
擦る。
擦る。
書くんじゃない。削っている。
紙が毛羽立ち、白くなり、薄くなっていく。
隣の席のB男が、しばらく見てから声をかけた。
「それで、何を消してる」
A男は顔を上げない。
「……言葉」
「どんな言葉だ」
A男はノートを少しだけ傾けた。
そこには、何度も何度も書き直された短い一文がある。
文字の上から、文字を重ねて、最後に擦って、また書いて、また擦って。
「『あの時、俺は間違えた』」
B男は静かに息を吐いた。
「間違えたのは事実か」
A男は頷いた。
頷き方が、謝罪そのものだった。
「だから消すのか」
「……消せる気がするんだ。夜通し擦ってると、少しだけ楽になる。
浄化されるみたいに」
B男はコーヒーを一口飲んで言った。
「浄化じゃない。麻痺だ」
A男の手が止まった。
「麻痺?」
B男はノートを指さした。
擦った跡は、傷だ。
紙が薄くなり、向こう側の文字が透けている。
「お前、言葉を消したいんじゃない。
罪悪感を感じる神経を擦り切らしたいだけだ」
A男は反射的に言い返す。
「でも、痛いんだ。思い出すたびに痛い。
だから、痛くないようにしたい」
B男は頷いた。
「分かる。痛いのは分かる。
でもな、痛みを消すために自分を削り続けると、何が残る」
A男は黙った。
答えが怖いからだ。
B男は続けた。
「最初は『間違えた』を消す。
次は『後悔』を消す。
次は『恥』を消す。
そのうち、『違和感』まで消す。
最後に消えるのは――止まる力だ」
A男の指が震えた。
確かに、最近は何も感じない時間が増えている。
楽になった気がしたのに、同時に空っぽだった。
A男は小さく言った。
「じゃあ、どうすればいい」
B男は即答しなかった。
そして、ゆっくり言った。
「擦るのをやめろ、とは言わない。
いきなりやめると反動が来る。
だから順番だ」
B男はA男のペンを軽く押さえ、ノートの余白に指を置いた。
「まず、消すな。書け」
A男は戸惑った。
「何を」
B男は淡々と言った。
「同じ文を、別の形で書け。
『間違えた』の横に、もう一行。
『それでも、次に何をする』ってな」
A男はペンを持ち直し、震える字で書いた。
『あの時、俺は間違えた』
『だから、次はこうする』
書いた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
だがその痛みは、擦って麻痺させる痛みとは違う。
逃げる痛みじゃない。向き合う痛みだった。
A男は、ノートの傷だらけの部分を見つめた。
「……擦るたびに、傷が深くなる気がしてた。
消してるはずなのに、残る」
B男は頷いた。
「残る。消えない。
消えないものを消そうとすると、紙が破れる。
心も同じだ」
A男はペンを置いた。
今夜は、擦らない。
代わりに、余白に書く。
少しだけでも。
店のスピーカーから、静かな曲が流れていた。
時計は深夜を回っている。
A男のノートには、消された跡ではなく、短い「次」が残った。
さて。
あなたが夜通し擦っているものは何だろう。
それは本当に「浄化」だろうか。
それとも、感じる力を削ってしまう静かな自罰だろうか。
あなたは今夜、擦り続ける?
それとも、余白に一行だけ、次を書いてみる?
この話の裏は、もっと露骨だ。
世の中には「消せる」「忘れられる」「なかったことにできる」を売る仕組みがある。
消しゴムみたいな言葉。
リセットの思想。
即効の救い。
そういうものは甘い。だから売れる。
でも、ここに罠がある。
「消せる」が正義になると、残っている自分が悪になる。
忘れられない人が弱いことになる。
引きずる人が間違いになる。
その空気に飲まれると、人は夜通し擦り始める。
過去を消すためじゃない。
「残っている自分」を消すために。
だから提案は派手じゃない。革命でも救済でもない。
ただ、擦る前に一回だけ問いを挟む。
これは浄化か?
それとも自罰か?
いま削っているのは過去か?
それとも自分の感覚か?
そしてできるなら、消す代わりに「次」を書く。
たった一行でいい。
擦り切れた紙の余白に、未来の余白を作る。
消せない傷があるのは、失敗したからじゃない。
生きたからだ。
問題は傷があることじゃない。
その傷を、夜通し擦って「無感覚」にすることだ。
あなたは今、何を擦っている?
そして、何を残す?