ご褒美があるから頑張れる。――だから私は、犬なのだろうか。
でも、ふと引っかかる。
私は私を、しつけているのか。
困難を越えるために、反応パターンを利用している。
できたら褒める。
進んだら飴をやる。
ご褒美で自分を動かす。
それで救われた場面も、たしかにある。
そして、これは私だけの話じゃない。
昔の人々は、理不尽が多すぎた。
努力や工夫では回避できない苦しみが、日常に濃く存在していた。
だから、確証がなくても、希望が必要だったのかもしれない。
死んだ後に報われる。
天国がある。
それがないと、乗り越えられないほどの夜があったのかもしれない。
けれど同時に、ここで立ち止まりたくなる。
確証もないまま苦しむだけなら、何のための生なのか。
信じることが支えになる一方で、
“未来の報酬”だけが私を動かす仕組みになると、心は危うくなる。
快楽物質で苦しみを消すのも、形が違うだけで似ている。
その瞬間は楽になる。
でも、根は残る。
そして、もっと強い刺激が欲しくなる。
報酬には保証が必要だ。
少なくとも、自分の時間を預けるなら。
投資に保証はない。
だからこそ、犬には投資は向かない。
犬は信じる。
見返りを疑わない。
私は犬みたいに、無邪気に信じたいのか。
それとも、人間として、主権を持ちたいのか。
ここで、問いを置く。
責めるためじゃない。戻るための問いだ。
いま欲しいのは、快楽だろうか。休息だろうか。
麻痺は悪じゃない。ただ、私は、そこに長居しない。
ご褒美がないと動けない私を、否定しない。
でも、保証のない報酬に人生を丸ごと賭けない。
いま、この場で確かめられるものを選ぶ。
たとえば――
戻れる呼吸。
静かさ。
一歩進める手触り。
誰にも奪われない、内側の主権。
私は、私の側に戻る。
今日、私が私でいられた。
それが、いちばん確かな報酬だ。
報酬は、追いかけなくてもいいのかもしれない。
もう受け取っているものを、確かめられる――それが人間なのだと思う。
それだけで、今日は、十分だった。