救われたと語る人がいる。
同じ数だけ、見捨てられたと感じる人もいる。
その両方を、同じ場所から眺めている存在がいるとしたら。そんな思考遊戯。
神は、静かな場所に腰を下ろしていた。
そこは高みと呼ぶに相応しく、世界の全てが一望できた。
地上では、今日も無数の声が響いている。
「神に救われた」
「祈りが通じた」
「奇跡が起きた」
その一方で、別の場所ではこう語られていた。
「神は何もしてくれなかった」
「祈っても無駄だった」
「結局、見捨てられた」
それらを同時に眺めながら、神は呟いた。
「今日も、面白いものがみれた」
その言葉に、側近は一瞬ためらった後、口を開いた。
「神よ……たまには、手を差し伸べてみてはどうでしょうか」
神は、ゆっくりと首を振った。
「私は、創っただけだ」
「あとは自由にさせている」
「その何が悪い」
「どう生きるかは、人間次第だ」
「私には、何の責任もない」
側近は黙り込み、しばらくしてから静かに言った。
「それは……確かにそうかもしれません。
ですが、だからといって高みの見物だけで『面白い』というのも、どうかと思うのですが」
神は鼻で笑った。
「何を言う」
「人間も、私を利用しているだけではないか」
「私は『信じろ』『祈れ』など、一言も命じていない」
「それなのに、勝手に私を持ち上げ、勝手に願い、勝手に絶望している」
神は視線を地上に戻した。
「都合のいい時だけ神を呼び、そうでなければ忘れる」
「せめて楽しまなければな」
「神など、やっていられん」
「我々は高みの見物といこうではないか」
側近は、小さく息を吐き、答えた。
「……それも、そうですね」
神は再び、沈黙の中で世界を眺め続けた。
介入しない存在に、道徳性を期待すること自体、無理があるのかもしれない。
もし神が、ただ世界というシステムを創っただけの存在だとしたら、
そこに責任は生じるのだろうか。
「自由にした」という言葉は、美しく聞こえる。
だが同時に、それは結果の全てを創られた側に押し付ける言葉でもある。
救われたと感じる人がいれば、救われなかったと感じる人も必ず生まれる。
その不均衡は、偶然なのか、それとも構造なのか。
ここでふと思う。
インターネットサービスも、どこか似ている。
提供者は「場」や「仕組み」だけを用意し、こう言う。
「使い方は利用者の自由です」
「起きた問題は、私たちの責任ではありません」
確かに、利用者が自由に発信し、自由に繋がれるからこそ価値がある。
しかし同時に、そこで起きる傷つけ合いも、搾取も、扇動も、
「自由」という言葉の影で放置されやすい。
神が何もしないという選択もまた、一つの介入なのかもしれない。
見守るという名の放置。
自由という名の無関心。
それでも人は、神を求め続ける。
理由は単純だ。
高みから見られていると思えた方が、
この世界が少しだけ意味のあるものに感じられるからなのかもしれない。
たとえ、その視線が
「面白い」という一言で片付けられていたとしても。