粘るのは信念じゃない。使われやすい形でもある――裏思考遊戯。
小さな町に、A男がいた。
何でも粘る。理屈より先に粘る。
周囲は呆れたが、A男は誇りにしていた。
「諦めないのが俺だ」
ある日、町に巨大な建設計画が持ち上がった。
古い公園を取り壊し、高層ビルを建てるという話だ。
反対は多かった。
だが議会のB男は淡々と決めた。
「決定だ。町は変わらなければならない」
A男は燃えた。
公園は町の象徴だ。
子どもが転び、老人が笑い、誰かが一人になれる場所だ。
A男は一人で座り込みを始めた。
夜の冷え込みの中、ベンチに座り続ける。
看板を立てる。声を上げる。
人は通り過ぎ、笑い、写真を撮り、また通り過ぎた。
数日後、メディアが来た。
カメラの前でA男は言った。
「俺は動かない。ここは、俺が守る」
その言葉は拡散した。
支持者も集まった。
若いA少年が来て、老人のB子が来て、親子連れも来た。
公園は一時だけ“昔の町”に戻った。
だが、その熱は長く続かなかった。
仕事がある。家庭がある。疲れる。寒い。
日が経つほど、人は減った。
残ったのはA男だけだった。
その頃、建設会社のC男(広報)は静かに笑っていた。
争う必要がなかったからだ。
A男がそこにいる限り、話は簡単になる。
「公園か、発展か」
二択にできる。
二択にすれば、負ける側は必ず“わがまま”になる。
ある夜、工事が始まった。
重機が入った。フェンスが立った。照明がついた。
A男は前に立った。
「やめろ!」
周りに人はいなかった。
配信も止まっていた。
風の音だけがあった。
C男は、遠くから見ていた。
警備のD男が小さく言った。
「どきません」
C男は肩をすくめた。
「……なら、予定通り」
重機が動いた。
A男が倒れた。
ニュースは翌朝、こう伝えた。
「反対派の男性、事故で死亡。工事は予定通り進行」
町は泣いた。
追悼の花が並んだ。
B男は会見で言った。
「尊い犠牲を無駄にしない。町は前へ進む」
そして、その言葉どおり、工事は止まらなかった。
公園は更地になった。
高層ビルが建った。
雇用が増え、税収が増え、店が増えた。
そして不思議なことに、誰も公園の話をしなくなった。
代わりに言われるようになった。
「綺麗になったね」
「便利になったね」
「仕方なかったね」
ビルの入口には、小さなプレートが付いた。
「A男記念広場」
人々はそこで待ち合わせをした。
笑い、写真を撮り、通り過ぎた。
A男が守ろうとした“公園の時間”は戻らなかった。
A男の粘りは、確かに美しかった。
だが同時に、あまりに扱いやすかった。
粘る者がいれば、誰かは言える。
「極端だ」と。
「危険だ」と。
「感情的だ」と。
そして最後に――「事故だった」と。
さて、あなたはどうだろうか。
あなたが不合理に粘るとき、それは誰のためだろう。
信念か。意地か。
それとも、誰かが欲しがる“物語の材料”になっていないだろうか。
ここで、この話の裏側をひっくり返す。
A男の死は「悲劇」でもあり、「便利」でもある。
悲劇は人の口を閉じる。
反対を続ける者を、道徳で縛れるからだ。
「亡くなった人がいるのに、まだ反対するのか」
こう言われた瞬間、議論は終わる。
公園の価値も、町の未来も、別の話にすり替わる。
残るのは、正しさの雰囲気だけだ。
そして広報は、その雰囲気を最大化する。
「尊い犠牲」「前へ進む」「無駄にしない」
そう言えば、誰もが善人の顔で前進できる。
裏の問いは一つ。
粘りは信念か。
それとも、誰かの計画を進めるための供物か。