「寄り添う」は、救うための言葉じゃない。救ったことにするための言葉になる――裏思考遊戯。
冬の都会。
冷たい風がビルの隙間を抜ける日、孤児院に一人の少年が現れた。
A少年は、両親を事故で失った。
親戚は引き取らなかった。
書類は整っていた。行き先も整っていた。
だがA少年の目だけが、整っていなかった。
悲しみと怒りが、同じ場所に住んでいた。
院長のB子は、A少年を丁寧に迎えた。
「ここは安全よ」
「大丈夫よ」
「みんな家族よ」
その言葉は、あまりに正しくて、怖かった。
正しさは、ときどき人を締めつける。
A少年は心を開かなかった。
食事を残し、返事をせず、寝る時間に寝なかった。
他の子どもとぶつかり、職員の注意を笑った。
職員たちは言った。
「時間が必要だ」
「トラウマだ」
「そのうち落ち着く」
A少年は、その“分類”が嫌だった。
名前を呼ばれるより先に、原因として扱われる。
それが孤児院の日常だった。
ある日、職員のC男がA少年の前に座った。
声は優しかった。目も優しかった。
優しい人間の顔だった。
「A、少し話さないか。何を感じている?」
A少年は黙っていた。
しかし、やがて吐き出すように言った。
「どうして僕だけなんだ。
僕の人生に価値なんてない」
C男はうなずいて、A少年の手を握った。
「君の人生には価値がある。
君が経験したことは辛い。でも、それが君を強くする」
その瞬間、A少年の目の奥で何かが消えた。
“強くする”という言葉の裏には、いつも同じものがある。
――今の痛みは我慢しろ。今の苦しみは意味がある。
つまり、今の自分は放置していい。
A少年は小さく笑った。
笑ったのに、C男は安心した顔をした。
「通じた」と思った顔だった。
その安心が、A少年には致命的だった。
その夜、火災が起きた。
理由は語られなかった。
小さな火が大きくなり、廊下を舐め、天井を走り、建物を呑んだ。
人は叫び、走り、扉を叩き、名前を呼んだ。
だが火は、祈りを聞かなかった。
朝、そこにあったのは黒い骨組みだけだった。
子どもたちも、職員も、そしてA少年も、戻らなかった。
数日後、慰霊碑が建った。
その前に立ったC男は、唇を噛んで呟いた。
「救えたのだろうか。
Aの闇を理解し、寄り添えたのだろうか」
B子は言った。
「私たちは最善を尽くした。
これは誰のせいでもない」
その言葉は、正しかった。
だからこそ、怖かった。
やがて孤児院は再建された。
寄付が集まった。支援が増えた。
パンフレットには、こう書かれた。
「凄まじい孤児の悲劇を、二度と繰り返さないために」
A少年は、名前ではなく、見出しになった。
死は、慰霊ではなく、資材になった。
悲劇は、反省ではなく、運営の燃料になった。
さて、あなたはどうだろうか。
あなたが誰かに「寄り添う」と言うとき、何をしているだろう。
その人の痛みを見ているのか。
それとも、痛みの裏側で“正しい物語”を作っていないだろうか。
ここで、この話の裏をめくる。
「君は強くなる」は、励ましの顔をしている。
だが裏側では、かなり乱暴だ。
痛みを“材料”にして、本人の現在を置き去りにする。
つらい → 意味がある
苦しい → 成長の途中
怒り → 未熟さ
叫び → 問題行動
こう分類した瞬間、救いは“管理”に変わる。
本人は見られず、状態だけが処理される。
そして悲劇が起きると、さらに残酷な裏が動く。
悲劇は「教訓」になり、「啓発」になり、「寄付」になり、再建の根拠になる。
誰も望んでいないのに、悲劇が運営を前へ進める。
裏の問いは一つ。
自分が差し出しているのは支援か。
それとも、支援の形をした“安心”か。