薬物中毒から抜け出したい男が、「自由意志を尊重する洗脳装置」と出会ったとき、何を自分の意志と呼べるのかが揺らいでいく思考遊戯。
A男は、苦しんでいた。
A男は長年の薬物中毒者で、本気で手を切りたいと願っていた。
病院にも通い、カウンセリングも受け、
置き換え療法やデトックスプログラムも一通り試してみた。
どれも一時的には効いた。
しかし、時間が経てば同じことの繰り返しだった。
「このままじゃ、本当にダメになる」
A男は、最後の望みに賭けることにした。
彼が訪ねたのは、「洗脳」を専門に研究してきた人物だった。
ある種のカルトや組織に関わる人間の心理を分析し、
洗脳のメカニズムを解き明かしてきたと噂される人物である。
A男は深々と頭を下げて言った。
「どうか、私を洗脳してください。
薬物に二度と手を出さないように、頭の中を書き換えてほしいんです」
人物は少しのあいだ黙ってから答えた。
「それは出来ません」
あまりにもあっさりした否定に、A男は戸惑った。
「なぜ、出来ないのですか?
私は本気で頼んでいるんです。あなたなら出来るでしょう?」
人物は静かに言った。
「私は、個人の自由意志を尊重しているからです」
A男は眉をひそめた。
「でも、今こうして“自由意志で”お願いしているのは、私ですよ?」
人物はうなずいた。
「ええ、分かっています。
ですが、弱っている人の『助けてほしい』という気持ちにつけ込む形になりかねません。
それに──
“洗脳してもらいたい”という願い自体が、
すでに何らかの影響で刷り込まれている可能性もあります。
どちらにしても、私の側からあなたの自由意志に介入することはしたくないのです」
A男は、言葉を失った。
「……それなら、仕方ありませんね」
諦め半分でそう言うと、人物はふっと表情を緩めた。
「とはいえ、あなたに希望がまったくない、というわけでもありません」
A男は訝しげに顔を上げた。
「先ほど、“洗脳は出来ない”とおっしゃいましたよね?」
人物はうなずいた。
「はい。
私からあなたを洗脳することは出来ない、と言いました。
そこで、別の方法が開発されたのです」
人物は、机の引き出しから小さな装置を取り出した。
手のひらほどの大きさで、見た目はただのシンプルな端末にしか見えない。
「これは、自由に洗脳できる装置です」
A男は思わず身を乗り出した。
「……つまり?」
人物は装置を指で軽く叩きながら説明を続けた。
「誤解のないように言えば、
この装置は“他人を”洗脳するためには一切使えません。
効果があるのは──
『意志を持った本人自身』にだけです。
自分で“こうなりたい”と明確に設定した内容だけが、
自分の思考や行動パターンに強く刻み込まれる。
しかも、本人のみにしか作用しませんから、
他人を意のままに操るといった悪用は不可能です」
A男の顔に、安堵と期待が同時に浮かんだ。
「それは……すごい。
それがあれば、私は薬物中毒者ではない自分に、なれるんですね?」
人物は微笑んだ。
「なれる“可能性が高くなる”と言うべきでしょう。
この装置は、あなたが望む人格や行動傾向を
“自分で”自分の中に上書きするための、補助輪のようなものです。
最終的に選び続けるのは、やはりあなた自身です」
A男は、胸の中が少し軽くなるのを感じた。
「それを……ぜひ、購入させてください」
人物は一拍おいてから、淡々と告げた。
「はい。もちろん構いません。
価格は──三つの“自己洗脳”が可能で、一千万円となります」
A男は思わず声を上げた。
「い、いっせん……?
それは、ちょっと高すぎませんか?」
人物は首を横に振った。
「そんなことはないと思いますよ。
この装置を使えば、ある意味──
どんな人間にでもなれるのですから。
犯罪衝動を抑えたい人は、
二度と犯罪に手を染めない自分に。
逃げ癖のある人は、
困難に向き合える自分に。
依存症に苦しむ人は、
依存対象そのものに興味を失った自分に。
社会全体から見れば、
犯罪者も、問題行動を起こす人も減らせるかもしれない。
それだけの価値がある投資だと、私は思います」
A男は「なるほど……」と呟いた。
理屈としては理解できる気がした。
それでもどこか、丸め込まれているような違和感が拭えなかった。
人物は、畳みかけるように言葉を続けた。
「さぁ、どうされますか?」
A男は顔を上げる。
「……どう、とは?」
人物は優しい声で、しかし逃げ道を与えない言い方で告げた。
「買いますか?
それとも──
一生を中毒者として過ごしますか?」
A男は唇を噛んだ。
自分が今、どちらの選択肢を「自分の自由な意志」だと感じているのか、
その感覚そのものが、急に信じられなくなっていくのを、ぼんやりと自覚しながら。
洗脳は、たいていの場合、
本人が意識しないうちに「当たり前」をすり替えられてしまうことを指す。
それが特定の組織への従属や、
一人の指導者への絶対的な服従であれば、
なおさら問題は大きい。
では、本人が望んでいる場合は、どうだろう?
依存症をやめたい
二度と犯罪を犯さない人間になりたい
そのような願いに対して、
「じゃあ頭の中を書き換えてあげましょう」と提案することは、
一見すると悪くない選択肢に見えるかもしれない。
しかし、
「洗脳されたい」という願い自体が、
すでにどこかで刷り込まれた価値観の結果である可能性
「自由意志を尊重する」ことを掲げながら、
実際には“選択肢の並べ方”によって意思決定を誘導している可能性
は、完全には否定できない。
もし、本人にしか効果がなく、
本人の望む内容しか書き換わらない装置があったとしても──
その「望み」がどこから来たのか、
本当に本人のものと言い切れるのか、
という問いは、やはり残る。
メリットばかりに見える仕組みほど、
その裏側で何が静かに失われていくのかを、
一度立ち止まって覗き込んでみる必要があるのかもしれない。
もしかすると、
「自分の意志で洗脳されたい」と願うその瞬間こそが、
すでに何かの洗脳の、一部なのだとしたら──。