(イジりとイジメの境界線)
笑わせる行為が、妙に強い時代だと思う。
これは否定ではなく、疑問だ。
空気を軽くする。場を回す。沈黙を埋める。
笑いは確かに役に立つ。救いにもなる。
でも同時に、笑いは“力”にもなる。
そして力は、境界線を曖昧にする。
お金が発生しないイジりは、許されるのか
職場でも、学校でも、友人同士でも、
「いじり」はコミュニケーションとして扱われることが多い。
仲良くなるため。距離を縮めるため。
場を和ませるため。
そういう名目で、軽い刃が飛ぶ。
受け取る側が笑えればいい。
笑えなければ「ノリが悪い」で片付けられる。
“笑えない側”の事情は、だいたい置き去りになる。
ここで一つ、怖い問いが残る。
笑いが成立するなら、誰かを傷つけてもいいのか。
多数が得をするなら、少数の犠牲は許されるのか。
結局、損得勘定になるのか。
笑えればそれでいいのか。
お金が発生するから、イジりは許されるのか
テレビ、舞台、配信、バラエティ。
「いじり」は商品として成立することもある。
ここで境界線はさらにややこしくなる。
お金が絡むと、人は「合意があるはず」と思いやすいからだ。
プロなのだから。仕事なのだから。
見せ方なのだから。
でも、疑問は残る。
お金が発生するから許されるのか。
それとも、お金が発生することで“耐える理由”が生まれるだけなのか。
「いじってくれてありがとう」と言えるのは、
実は“お金が入ってくるから”という場合もある。
あるいは、お金ではなく、立場や評価や居場所が入ってくるから、かもしれない。
つまり、感謝の言葉が
本心ではなく“生存戦略”に変わる瞬間がある。
それが一番、悲しい。
もしお金が絡まなかったら、どうなるのか
この問いは、逆に本質を照らす。
お金が絡まない場では、
「耐えた人」には何も入ってこない。
笑いが取れた側だけが得をし、
傷ついた側は、傷ついたまま日常に戻る。
そして日常は残酷で、
傷ついた側が傷を語ると、場の空気が重くなる。
だから黙る。
黙った人は「大丈夫」と誤解される。
誤解は繰り返しを生む。
このループは、いじりを“習慣”にする。
習慣になったものは、誰も疑わなくなる。
境界線は、言葉の種類ではなく、逃げ道の有無
いじりといじめの違いを、言葉だけで判定するのは難しい。
同じ言葉でも、関係性や文脈で意味が変わる。
だから私は、境界線を別の場所に置きたい。
それは「逃げ道」だ。
断っても不利益がないか
嫌だと言える空気があるか
笑わなくても居場所があるか
その場から離れても責められないか
繰り返しが止まる仕組みがあるか
逃げ道がない笑いは、笑いではなくなる。
それは、支配に近い。
そして支配は、面倒な思考を奪う。
「考えるのが面倒なら、人間である必要もないのでは」
という感覚が、ここで現れる。
笑いが人を楽にするのではなく、
人を単純化するために使われるなら、
その笑いは、何かが違う。
耐える強さより、しない強さ
いじられる強さ。
いじめに耐えられる強さ。
それが称賛される場面がある。
でも私は、それよりも欲しい。
いじらない強さ。いじめない強さ。
誰かを落とさなくても場を成立させる強さ。
笑いを取らなくても、自分の価値を保てる強さ。
それは、我慢の強さではない。
“満たされ方”の強さだ。
そんなことをしなくても、
十分満たされた喜びの中で生きていける。
それを証明できる人が増えたら、
笑いの形も、きっと変わる。
最後に、静かに残る問いを置いておく。
その笑いの代金を、
本当は――誰が払っているのだろう。