映画を見ていると、主人公が悪人をバッタバッタと倒していく場面が出てきます。
観客の私は、息を呑みながらも、どこかで安心しています。
「この人たちは正しい側だ」
「相手が悪いから仕方ない」
「殺されそうなんだから、やるしかない」
でも、ふと頭に浮かびました。
殺されそうなら、殺しても許されるのか?
この問いは、怖い。
霊の話より、よほど現実的で、答えが一つに定まりません。
まず、ここで引っかかるのは「許される」という言葉です。
許される、には少なくとも二種類あります。
法律として許されるのか
心として許されるのか
そして実際は、もう一つあります。
世間や物語として許されるのか
映画の中では、この三つが一つにまとめられます。
だから気持ちよく進む。
主人公が撃てば、「当然だ」と観客が頷く。
悪人が倒れれば、「正義が勝った」と物語が拍手する。
でも現実は、こうはならない。
「殺されそうだった」という感覚は、本人の体感で、外からは測りにくい。
恐怖は本物でも、状況判断は後からいくらでも疑われる。
正しかったとしても、心が無傷で済むとは限らない。
もし本当に“正当防衛”のようなものが成立するとしても、
そこには「必要だったか」「やり過ぎていないか」という、冷たい線引きがついて回ります。
怖いのは、相手だけではなく、その線引きのほうです。
だからこの問いは、実は「殺していいか」ではなく、
人が恐怖の中で、どこまで自分を守っていいのかという問いなのだと思います。
そしてもう一つ、さらに静かで厄介な問いが潜んでいます。
本当に許されたいのは、誰に対してなのか。
裁判官か。世間か。仲間か。
それとも、自分自身か。
映画は、ここを省きます。
省くことで、物語が加速し、観客も救われる。
でも私は、あの“気持ちよさ”に時々、薄い怖さを感じます。
人は「正しさ」という衣装を着ると、殺すことさえ簡単に正当化できてしまう。
その構造が、心霊スポットよりずっと身近にあるからです。
結局、問いは残ります。
「殺されそうだった」その瞬間、
自分は“生き延びるため”に動いたのか。
それとも、“正しい側でいたい”という物語に乗ったのか。
たぶん、どちらも混ざっている。
だから答えは一つにならない。
私が確かめたいのは、結論ではなく、境界線です。
自分が恐怖の中で、どんな言葉で自分を正当化しようとするのか。
その癖を知っておくことが、いちばん現実的な「護身」なのかもしれません。