A子には、類まれな芸術の才能があった。
だがその才能が“善いもの”を生むとは限らない――そう気づかせる、芸術と道徳をめぐる小さな思考遊戯。
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A子には、類まれの優れた芸術の才能があった。
ある日のこと、A子は一世一代の大勝負をかけた。
そしてついに、これまで世に出た芸術品の中でも群を抜いた、トップクラスの作品を創り上げることができた。
問題は、その中身だった。
作品は、道徳性をまったく無視していた。
議論は割れた。
「表現の自由」だと言う人がいた。
「危険すぎる」と言う人もいた。
誰もが、作品の完成度だけは否定できなかった。
だからこそ、議論は長引いた。
そして――様々な議論が行われた末に、その作品は半ば強引に世に出すことに決定された。
理由は、決まっていた。
「どうせ止められない」
「世に出さなくても、どこかで流れる」
「むしろ公式に出して議論したほうが安全だ」
そうして作品は、公開された。
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結果として、作品のメッセージ性は想像以上に強力だった。
その作品を見た多くの人に、同じ“感覚”が残った。
言葉ではなく、正しさのようなもの。
理屈ではなく、確信のようなもの。
作品が語ったのは、単純だった。
「人を殺すことの正義」
もちろん、全員が賛同したわけではない。
否定する者もいた。怒る者もいた。吐き気を催す者もいた。
だが皮肉なことに、否定の言葉は作品を拡散させ、怒りは作品に注目を集め、吐き気は作品を“忘れられない形”にした。
そして、作品を見た人は二種類に割れていった。
「危険だ」と言う人。
「これは真実だ」と言う人。
問題は、後者が持ってしまったものだった。
免罪符である。
それまで言えなかったことが、言える。
それまでできなかったことが、できる。
それまで躊躇していたことが、正しい顔をする。
やがて世界は、静かに壊れ始めた。
正しさが正しさを呼び、正義が正義を連鎖させ、誰も引き返せなくなった。
そして――その結果、人類は全滅した。
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絶望した世界に、作品だけが残った。
誰も見ない傑作。
誰も語らない名作。
誰も救わない芸術。
風が吹き、雨が降り、時間が過ぎた。
評価も、批判も、称賛も、炎上も――すべてが消えた。
最後に残ったのは、メッセージではなく沈黙だった。
そしてその沈黙の中で、芸術品もまた、ゆっくり朽ちていった。
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反社会的なメッセージほど、強い注目と強い感情を引き出しやすい。
その強さが、作品を“傑作”に見せることもある。だが、強いことと、善いことは同じではない。
芸術が「表現物」と「鑑賞者」の相互作用で成り立つなら、芸術は人間ありきだ。
どんなに芸術性が高くとも、その影響で人間がいなくなったなら、芸術は成立しない。
誰も見ない傑作は、傑作であり続けられるのだろうか。
芸術と道徳が両立できるとすれば、芸術は道徳を無視できないのかもしれない。
では、芸術が道徳を無視したとき――守られるべきは「表現」だろうか。
それとも、表現が作用してしまう「人間」だろうか。
あなたが傑作だと感じた作品が、もし世界を壊せるほど強かったなら、
その強さは、誰のために使われるべきなのだろう。