封筒が来る前に、もう負けている――裏思考遊戯。
都会の雑音の中で、A男は平凡な公務員をやっていた。
規則、手続き、判子、メール。
正しさは整っていて、心は削れていく。
ある日、A男は上司のB男に、人気のない会議室へ呼ばれた。
ドアが閉まる音だけが、やけに大きい。
B男は言った。
「君に任せたい案件がある。少し特殊だ」
A男は頷いた。
特殊。つまり、責任の匂い。
B男は机の上に、薄いファイルを置いた。
「ある企業が許可を欲しがっている。
で、裏で“感謝”を用意してる」
A男は息を止めた。
賄賂。ワイロ。封筒。
ニュースの中の単語が、急に現実になる。
「……なんで俺なんですか」
B男は一拍置いて、綺麗な言葉を出した。
「君は正直だ。信頼できる。
公正な判断ができる。そう評価されている」
褒め言葉が出たとき、A男の胸は少し熱くなった。
同時に、冷たいものも混ざった。
褒め言葉は、任務の前菜だ。
飲み込んだ時点で、もう契約が始まる。
B男は続けた。
「受け取るか、拒むか。
君の判断に任せる」
それは“自由”の形をしていた。
だがA男には分かった。これは自由じゃない。
踏み絵だ。
その夜、A男は眠れなかった。
受け取る? 拒む?
頭の中で、二つの未来が勝手に動く。
受け取れば、楽になる。
誰かが喜ぶ。案件が進む。空気が軽くなる。
拒めば、正しい。
でも空気が重くなる。誰かの顔が曇る。
「融通が利かない」「理想論」そんな言葉が飛ぶ。
A男は気づく。
怖いのは金じゃない。
怖いのは、拒んだ瞬間に起きる“微妙な変化”だ。
そして、さらに嫌なことに気づく。
自分はもう、封筒を予期している。
来ていないのに、心のどこかが準備している。
受け取る理由、拒む言い訳、どちらも先に作っている。
賄賂は、封筒じゃない。
封筒が来る前に、もう心に入り込んでいる。
翌日。
A男は企業の代表と会った。
代表は笑顔が上手い。笑っているのに、目が笑っていない。
雑談のあと、代表は当然のように封筒を出した。
机の上に置く。置き方が慣れている。
「これは、ただの感謝の気持ちです。
受け取ってください。皆さん、そうされてますから」
“皆さん”という言葉が、釘みたいに打ち込まれる。
それは事実かもしれない。
でも事実であるほど、断りにくい。
A男は封筒を見た。
薄い。軽い。なのに重い。
拒もうとして、喉が詰まった。
その瞬間、代表の笑顔が少しだけ変わった。
急かしていない。脅していない。
ただ、待っている。
A男は、手を伸ばした。
封筒を受け取った瞬間、胸の中に冷たいものが広がった。
金額の問題じゃない。
自分の中の“線”が一本、消えた感覚だ。
代表は、もっと優しくなった。
「ありがとうございます。助かります。
これで、話が早い」
その言葉でA男は理解した。
封筒は“感謝”じゃない。
合意だ。
ここから先、断れば“裏切り”になる。
数週間後。
A男の元に、匿名の通報が届いた。
「A男は賄賂を受け取った」
A男は血の気が引いた。
机の中に封筒はもうない。使ってもいない。
それでも、終わりだった。
A男はB男の部屋へ駆け込んだ。
「Bさん……通報が……俺、どうすれば」
B男は書類から目を上げ、冷たい目で言った。
「現実だよ。
受け取った時点で、君の信頼は崩れた。
君が選んだんだ」
A男は言葉を失った。
“信頼できるから任せた”と言った口で、
“君が選んだ”と切り捨てる。
A男は震えた。
「……最初から、こうなるの分かってたんですか」
B男は何も答えなかった。
答えないことが答えだった。
A男はその場で理解した。
賄賂の本当の力は金じゃない。
孤立させる力だ。
受け取った瞬間、周りから逃げられなくなる。
拒んだ瞬間、周りから嫌われる。
どちらでも、ひとりになる。
そして最悪なのは、ここだ。
賄賂を受け取る前から、
自分で自分を“汚れる予定”にしてしまうこと。
予期した時点で、心がもう折れている。
A男は帰り道、ガラスに映る自分を見た。
そこには、正しさを守った顔ではなく、
正しさを売った顔が映っていた。
さて。
あなたが予期している封筒は、何だろう。
現金じゃなくてもいい。
褒め言葉かもしれない。
仲間外れにされないための迎合かもしれない。
「みんなそうしてる」という空気かもしれない。
それを“まだ受け取っていない”うちに、
もう心の中で契約していないか。
裏側を言う。
賄賂の恐ろしさは、金額じゃない。
予期されることだ。
封筒が来る前から、
人は「ここは汚れる場所だ」と決めてしまう。
その決め方が、支配の入口になる。
「皆さんそうしてますから」
「断ったら面倒になる」
「一回だけなら」
「誰も見てない」
この言葉は、封筒より先に人を折る。
折れた人間は、どこかで自分を守るために嘘をつく。
嘘はさらに孤立を作る。
孤立は、より強い封筒を呼ぶ。
そして最後に、もっと冷たい真実がある。
賄賂は、渡す側だけが悪いわけじゃない。
受け取る側だけが悪いわけでもない。
“汚れる場所”を当然にする空気が、いちばん強い。
だから問いはこうなる。
封筒を拒むか、受け取るか、だけじゃない。
封筒を予期して生きるのか。
それとも、予期しない自分を守るのか。
封筒が来る前に、もう負けないために。