絶える振動をめぐる思考遊戯。
地下鉄トンネルのさらに奥、立入禁止の鉄扉の向こうで、古い機械が動き続けていた。
都市の呼吸みたいに、ずっと。ずっと。ずっと。
A男は若い技師だった。
点検のたびに、決まって最初に“音”を聴く。次に“振動”を触る。最後に“匂い”を嗅ぐ。
機械は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも人間だ。
その日、A男は違和感を掴んだ。
振動が強い。いや、強いだけじゃない。質が変わっている。
いつもの一定の唸りではなく、細かい震えが混ざっている。まるで焦りみたいに。
A男は計器を見た。数値は“許容範囲”を装っていた。
だが現場の肌感覚は言う。これはもう、範囲の問題じゃない。
上司のB男に報告した。
「振動が異常だ。早急に止めて点検した方がいい」
B男はファイルを閉じもせずに言った。
「止められない。あれは都市の命脈だ」
A男は食い下がる。
「止められないなら、止めずに壊れるだけだ」
B男は目だけ上げた。
「だから慎重にやる。
急ぐな。焦るな。余計なことをするな」
その言葉が、A男の胸に引っかかった。
“余計なこと”とは何だ。
壊れる前に止めることが、余計なのか。
A男は勝手に調べ始めた。
古い図面。過去の修理記録。交換された部品の履歴。
そして、もっと古い報告書。誰も読まない紙束の底に、短い一文があった。
「振動は排圧機構を兼ねる」
A男は背中が冷えた。
この機械は、内部に溜まる圧力を“振動”として逃がしていた。
つまり振動は故障ではなく、安全弁だった。
そして今、振動の質が変わっている。
安全弁が詰まりかけている。
A男はB男のところへ戻った。
「止めないと危ない。
振動は逃げ道だ。逃げ道が詰まり始めてる」
B男は眉をひそめた。
「止めたら都市が落ちる。
停電が起きる。交通が止まる。病院も止まる。
その責任を誰が取る?」
A男は一瞬、言葉を失った。
正しさはいつも、責任の顔をしてこちらを見る。
だが、A男にはもう一つ見えていた。
止めない責任。止める責任。
どちらも地獄なら、選べるのは“地獄の種類”だけだ。
A男は言った。
「このまま動かしたら、いつか爆ぜる(爆発する) 。
その“いつか”を、俺たちは都合よく先送りしてるだけだ」
B男は冷たく言った。
「君が英雄になりたいだけに見える」
その一言で、A男は理解した。
ここは技術の話じゃない。物語の取り合いだ。
誰が正しく見えるか。誰が悪者になるか。
A男は決めた。
緊急停止手続きを起動した。
警告灯が赤く点滅し、サイレンが低く鳴った。
振動が、少しずつ弱まっていく。
都市の奥の呼吸が、止まりかける。
次の瞬間――
都市が暗闇に沈んだ。
そして、遅れて地鳴りが来た。
地下から、鈍い破裂音。
トンネルの奥で、何かが一度“静か”になり、次に“壊れた”。
粉塵が吹き上がり、非常灯が揺れた。
壁がきしむ。配管が唸る。
A男は息を呑んだ。
止めたから爆ぜた。
だが本当は、爆ぜる準備はずっと前からできていた。
数日後。
都市は復旧作業で混乱していた。
ニュースはこう言う。
「若手技師が独断で停止」
「過剰反応による混乱」
「安全を脅かした判断」
A男は現場から外された。
B男は記者の前で言った。
「残念だが、組織としての判断ではない。
彼が勝手に止めた」
A男は笑いそうになった。
笑えないのに、笑いが出そうになる。
止めなければ、いつか爆ぜた。
止めたから、今爆ぜた。
結局、爆ぜる責任だけが残る。
A男は暗い廊下で、遠くの非常灯を見ながら思った。
振動は、警告だった。
ずっと鳴っていた。ずっと揺れていた。
でも誰も、それを“背景音”として処理していた。
さて。
あなたの周りで、ずっと鳴っている振動は何だろう。
ずっと揺れているのに、慣れて見過ごしている違和感は何だろう。
それを止めるのが正義なのか。
止めないのが現実なのか。
その線引きは、どこで決まる?
ここには矛盾がある。
止めないと壊れる。でも、止めると壊れる。
正しい判断が存在しない状況が、現実にはある。
もちろん、慎重さが悪とは限らない。
止めれば社会が落ちる、という懸念も本物だ。
問題は、その慎重さがいつの間にか「先送りの免罪符」になってしまうことだ。
見えないルールが働く。
予算、責任、評価、手続き、前例、そして“誰が悪者になるか”。
危険を避けたいのではなく、危険の責任を避けたい方向に仕組みが動くとき、
振動はずっと鳴り続ける。
振動が続くほど、人は慣れる。
慣れるほど、異常は日常になる。
日常になった異常は、止めることすら“異常行動”に見える。
だから問いはこうなる。
あなたが「絶える振動」を見つけたとき、
止める前に、誰がどんな物語を作るかまで想像できるだろうか。
そしてその上で、それでも止めるのか、止めないのか。
振動は音ではなく、選択の前触れなのかもしれない。