合理性は、ときに正しさを装う。
けれど“押す”という一点で、理屈は急に黙り込む。そんな思考遊戯。
A星人は、指をボタンの上で止めていた。
これまで宇宙の進化した星々は、合理的に考えてきたからこそ発展してきた。
A星人もまた、道理に沿った判断を積み重ねてきた。
だからこそ、今回のような重要な任務を任された。
任務の内容は、単純だった。
ただ一つのボタンを押す。
その対象の星は、木っ端微塵になる。
「迷う必要はない」
背後にいた参謀が、淡々と言った。
「データが出ている。あの星の文明は、このまま進めば、そう遠くない未来に全宇宙へ悪影響を拡散させる」
「今ここで消せば、未来の被害は回避できる」
A星人は頷いた。
数字は嘘をつかない。
確率も、損失も、波及も、すでに計算されている。
それに――
その星を消すことは、単なる“排除”ではなかった。
星を消せる兵器が存在するという事実が示されれば、星間戦争は激減する。
恐怖が、衝動を抑える。
その結果、将来、何百兆という命が救われる見込みがある。
合理性は、完璧だった。
どこにも隙がない。
それでも、指が動かなかった。
A星人は小さく息を吐いた。
「……あの星には、住人がいる」
参謀は無感情に答えた。
「七十七億」
「統計上、犠牲としては最小です」
A星人は、その言い方に胸の奥がざらついた。
最小。
犠牲。
統計。
言葉は正しい。
だが、正しさの輪郭が、急に冷たく見えた。
A星人は画面を見た。
対象の星の映像には、雲と海と光が映っていた。
そこに暮らす者たちの声は届かない。
届かないから、合理的でいられる。
しかし――
届かないはずなのに、なぜか届くものがあった。
「押せ」
命令は短かった。
A星人は、ゆっくり首を振った。
「押せない」
参謀が眉を動かした。
「あなたは合理的な判断者として選ばれた」
「個人的感情は不要だ」
A星人は答えた。
「これは感情ではない」
「合理性が、私の指を止めている」
参謀は一瞬黙り、やがて言った。
「……矛盾している」
A星人は画面を見たまま、静かに続けた。
「合理性は“正しい結論”を出すことが目的じゃない」
「合理性は、判断者が判断を引き受けられる形にするための仕組みだ」
「だがこの結論は、引き受けられない」
「引き受けられないものは、実行不能だ」
「実行不能なら、合理性として破綻している」
参謀は、言葉を失った。
そして、それはA星人だけではなかった。
別の星の代表者も、別の会議室も、別の指も――
誰も押せなかった。
どれほど合理的な文明でも、自分の指で“消す”ことだけはできない。
その事実が、広い宇宙のあちこちで同時に露呈していった。
会議は紛糾した。
結論は一つなのに、実行者がいない。
全員が同じ正しさを握りしめたまま、動けない。
そして最後に、議長が言った。
「判断者を排除しよう」
「押す者を、人間ではなく、システムにしよう」
A星人は顔を上げた。
「それは……逃げではないのか」
議長は淡々と返した。
「逃げではない」
「合理性の最終形だ」
「実行不能な結論は、結論ではない。だから実行可能な形へ変換する」
その日、ボタンは人の指から離された。
権限は、コンピューターに委譲された。
条件が満たされれば、遅延なく、迷いなく、実行される。
A星人は席に座ったまま、ただ画面を見ていた。
カウントダウンが始まる。
誰も押さない。
だが、押される。
ゼロになった瞬間、画面は白く染まり、やがて静かになった。
参謀が言った。
「完了しました」
A星人は答えなかった。
合理性の勝利なのか。
それとも――
合理性が人を追い出しただけなのか。
―――――
核抑止論――つまり、核兵器の保有はその法外な破壊力ゆえに、かえって戦争を抑止する、という考え方。
それは「犠牲が現実に出たことで説得力を増す」面があり、確かに効果を持つのかもしれない。
けれど、もし全宇宙の観点から見たとき、
地球そのものが“抑止の証明”として消される――
そんな発想すら、合理的だと言えてしまうのだろうか。
合理性は、規模が大きくなるほど冷たくなる。
数が増えるほど、個は薄くなる。
だからこそ、合理性の名の下で“押せるボタン”が増えていく。
もちろん、技術がそこまで進歩した知的生命体なら、
犠牲を払って破壊力で抑止する以外の方法を見出すはずだ。
危険な文明が暴走する前に、別の形で“熱”を冷ます仕組みを作る。
あるいは、文明が自然に自滅するような構造を――と考えることもできる。
ただ、ここにも皮肉がある。
「自滅の仕組み」すら、合理性によって設計されるなら、
それは本当に“他の方法”なのか。
結局、違う形のボタンを増やしているだけではないのか。
合理的であることは、正しいことと同義ではない。
合理的であることは、ときに「誰も責任を持たない形」を完成させる。
あなたが合理的だと感じる判断は、
命を救うための合理性なのか。
それとも、責任から遠ざかるための合理性なのか。