世の中には、悪いことをしているのに、ずっと「白い顔」のまま生きている人がいる。
そして、その白さは、ときに周囲の善意で強化されていく――影思考遊戯。
ある集落に、父親がいた。
子どももいるのに、働かない父親だった。
母親が外に出て稼ぎ、家の生計を立てていた。
だが父親は、主夫というわけでもない。家事も、ほとんどしない。
それどころか、母親に恐怖を与えることで、家庭の空気を支配していた。
家の中では暴君。
けれど外では、別人だった。
父親は外面が良かった。
時間だけはあるから、地区で頼まれたことを引き受ける。
人は、「助かるね」「いい人だね」と言った。
誰も、家の中を見ようとしなかった。
「見ないことで保たれる平和」が、そこにはあった。
ある日、父親は偶然、まとまったお金を預けられた。
それは、贅沢をせず、歯を食いしばって、長い時間をかけて貯めたお金だった。
余計なものを買わず、外食も我慢して、体調が悪い日も休めずに働いて――そうやって積み上げた、「生活の底」から生まれた貯金だった。
けれど持ち主は、ある出来事で身体が不自由になり、自分ではもう「管理」そのものができなくなった。
通帳の手続き、支払い、ちょっとした立て替え。
それらを頼れる手が必要になった。
持ち主は、父親の家の中を知らなかった。
地区で「頼れる人」と言われる、その顔だけを信じてしまった。
「しばらく、管理に使用して保管してほしい」
そう言われた理由は簡単で、父親は「暇で、顔が利いて、断らなそう」だったからだ。
父親は、まるで責任ある人間のように頷いた。
父親は、最初は丁寧に扱った。
封筒をしまい、鍵をかけ、何度も確認した。
管理する者としての自分を、少し誇らしく感じた。
だが数日後、父親の頭に、静かな計算が浮かんだ。
「これ、バレる可能性……低いな」
最初は、管理の範囲に見える形だった。
地区の用事の立て替え。
誰かの頼みを、少し気前よく引き受ける。
周りの目が「さすがだね」と変わる。
父親の顔が、少し立つ。
次第に、その目的は「管理」から外れていった。
管理という名目をまといながら、実際は、自分の外面を守るために使い始めた。
誰かに頭を下げなくて済むように。
弱い自分が見えないように。
「いい人」を演じるために。
父親は自由に使い始めた。
小さな買い物から。
次は少し大きなもの。
「戻せばいい」と思いながら、戻す日は来ない。
そして父親は、余ったお金を子どもに与えた。
まるで、優しい父親のように。
子どもは父親を憎んでいた。
家の空気を壊し、母親を縮ませ、何もしないのに偉そうで、外では良い人ぶる。
心の底から嫌いだった。
でも、目の前に出されたお金には、別の力があった。
子どもは、受け取ってしまった。
「これは父の金じゃない」
「私は被害者だ」
そう思いながら。
父親はその瞬間、少しだけ笑った。
勝ったからではない。
「共犯に近い線」が、ひとつ増えたからだ。
それから父親は、何も悪いことをしていない顔で生きた。
地区では相変わらず頼まれごとをこなし、褒められ、信用される。
白い顔は、外で磨かれ続けた。
家では相変わらず、母親は怯えた。
子どもは相変わらず、父親を憎んだ。
けれど――
憎みながら、子どもはときどき、父親から渡されたお金を思い出した。
その記憶は、父親の白い顔を、子どもの内側にも少しだけ植え付けた。
「私は悪くない」
「仕方がない」
「みんなが見ていないだけ」
影は、こうして、家の中から次の世代へ渡っていった。
この話の影は、父親だけではありません。
白い顔が通用する環境と、お金が罪悪感を薄める仕組みもまた、影です。
外面が良い人が、地域で「いい人」と固定されると、周囲は安心して「見ない」を選びます。
そして「管理」という言葉は、ときに便利です。正しそうに見えるからです。
けれど、その管理がいつの間にか、自分の顔を立たせるための道具に変わることがあります。
さらに際立つのは、そのお金が「余ったお金」ではないことです。
贅沢をせず辛抱して貯めた、誰かの人生の一部。
そこに手を伸ばす行為は、金額以上に、生き方そのものに触れてしまいます。
そして子どもです。
憎んでいるのに、受け取ってしまう。
その瞬間、憎しみは消えないまま、自分の中に言い訳の回路だけが残ることがあります。
もしあなたがこの子どもの立場なら、どうしますか。
受け取らない強さよりも、受け取ってしまった後に、自分を白い顔にしない選択はできますか。
影は、「大きな悪」だけで出来ていません。
小さな正当化が積み重なったとき、影は普通の顔をして残ります。