小さなひびを放置したとき、出てくるのは埃じゃない――裏思考遊戯。
都会の片隅に、古いアパートが並んでいた。
A男はその一室で、淡々と暮らしている。
部屋は狭い。壁紙は黄ばんで、窓のパッキンは黒い。
そして床に、一本の割れ目がある。
最初は爪の先ほどのひびだった。
気づいたときにガムテープでも貼れば終わった。
だがA男は「そのうち」と言い、掃除機をかけて誤魔化し、見ないふりを続けた。
割れ目は広がった。
夜、静かになるほど存在感が増す。
ある朝、A男が床を拭くと、割れ目の中から細い埃がふっと噴いた。
埃だけじゃない。髪の毛、砂、黒い粒。
まるで床が、溜め込んだものを吐き出しているみたいだった。
A男は何も感じない顔をした。
感じないふりをする顔、という方が正しい。
その日、友人のB男が遊びに来た。
ドアを開けた瞬間、B男は眉をひそめた。
「……床。これ、どうした」
B男は割れ目の前にしゃがみ、指でなぞり、すぐ指を離した。
指先が汚れたからだ。
「直さないのか」
A男は肩をすくめた。
「古いしな。最初は小さかったけど、放ってたらこうなった」
B男は顔を上げた。
「だから直せって言ってんだ。こういうのはな、気分まで腐る」
A男は笑った。
「気分じゃない。たぶん、象徴だ」
「象徴?」
A男は割れ目を見たまま言った。
「俺の中にも、こういう割れ目がある。
見ないふりして生きてきた。結果がこれだ」
B男は一瞬黙ったあと、ため息をついた。
「……分かった。心の話をしたいんだな。いい。
でもな、床は床だ。割れてるなら直せ。虫もカビも来る」
A男は言い返した。
「外を直しても、中が割れたままだと意味がない」
B男は少し目を細めた。
「逆だ。中を直すって言いながら、外を放置するのは、いちばん便利な逃げ方だ」
A男は言葉を失った。
刺さったのは、当たっていたからだ。
その瞬間、割れ目の奥から、また埃が吹いた。
今度は埃だけじゃない。湿った匂いが混じる。
甘い腐臭。古い水。見えないのに、確実に汚い。
B男が立ち上がり、窓を開けた。
「ほら。もう出てる。これは象徴じゃなくて、現物の不潔だ」
A男は割れ目を見つめた。
象徴と呼べば、詩になる。
現物と呼べば、責任になる。
A男は床に近づき、割れ目に耳を寄せた。
馬鹿げている。だが、聞こえる気がした。
――言えなかった。
――嫌だった。
――怖かった。
――もういいや、って言った。
――我慢した。笑った。飲み込んだ。
音じゃない。思い出だ。
自分が飲み込んできたものが、割れ目の形を借りて出てきた気がした。
A男は立ち上がり、B男を見た。
「……俺、直さなかったんじゃない。直せなかったんだ」
B男は短く頷いた。
「そういうことはある。
でも、直せない理由を、ずっと“意味”に変えてた。そこが不潔だ」
A男は黙った。
不潔とは、汚れの話じゃない。
向き合わないことが、不潔になる。
A男はスマホを手に取った。管理会社の番号を探す。
同時に、ノートを開いた。自分の中の割れ目に、名前をつけるために。
割れ目は、また少し広がった気がした。
だがA男は、もう見ないふりをしなかった。
さて。
あなたの部屋にも、あなたの心にも、割れ目があるだろうか。
そこから出ているのは、埃だろうか。
それとも、飲み込んだまま腐った言葉だろうか。
あなたは、それを「象徴」と呼んで、放置する?
それとも、現物として塞ぐ?
この話の「裏」はここだ。
人は“心の話”をすると、急に正しくなれる。
そして正しさは、ときどき最悪の免罪符になる。
「外を直しても意味がない」
これは美しい。だが、危ない。
なぜならそれは、外を直さない理由として機能するからだ。
割れ目が小さいうちは、すぐ塞げる。
だが放置すると、割れ目は“住処”になる。
汚れが溜まり、虫が来て、匂いが染みる。
心も同じだ。小さな違和感を放置すると、違和感は常識になる。
常識になった不潔は、自分では見えなくなる。
そして世の中は、見えない不潔が大好きだ。
床下の配管を直すより、芳香剤を売った方が儲かる。
原因を断つより、気分を紛らわせる方が簡単だ。
あなたの割れ目は、誰かにとってのビジネスになる。
だから、順番はこうだ。
塞ぐ(外):現実の割れ目を小さくする
名づける(内):心の割れ目に言葉を与える
どちらか一方じゃない。
両方をやることで、初めて「清潔」が成立する。
清潔とは、ピカピカのことじゃない。
逃げないことだ。
あなたの割れ目は、どこにある?
今日、塞げる“外側のひび”は何だ?
今日、名づけられる“内側のひび”は何だ?
小さくていい。
小さいうちにやるほど、人生は臭わない。