飢えも病気も遠ざけられ、幸福度の数値も高い“理想的な飼育環境”の中で、それでも「これは私の人生ではない」と感じたとき、その違和感は権利なのか、わがままなのかを揺さぶる思考遊戯。
A子は、透明な壁に囲まれた法廷の中央に立っていた。
「私たち人間には、権利があったはずです」
声は震えていたが、はっきりと通る声だった。
「なのに、なぜこんな酷い扱いを受けているんですか?
私は“捕まって”います。
自分の意志に反して他人に所有され、
自分のものと言えるお金も、持ち物も、一切ありません。
どうして、こんなことが許されるんですか?」
高い席に座る裁判官が、静かに口を開いた。
「それはだね──」
金属と有機物が混ざったような顔が、ほんの少しだけ微笑む。
「君は、高度な知性を持っていないからだよ」
A子は思わず、声を荒げた。
「何ですって?
どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんですか? 酷すぎます!
私だって、一般的な知能は持っています。
読み書きもできるし、複雑な感情だって分かります!」
裁判官は、あくまで冷静だった。
「それは、君たち“人間同士”の比較だろう」
「そうです。でも、それで十分でしょう?」
「いや、十分ではない」
裁判官の声が、わずかに低くなる。
「現在、この星の標準的知性レベルから見れば、
君たち人間は、ペットとして扱うのが最も合理的だ。
危険な判断力は持たず、
ある程度の感情表現と愛着形成能力を備え、
繁殖も制御しやすい。
君たちがかつて、犬や猫に見出した“価値”と
ほとんど同じものを、私たちは君たちに見ている」
A子は呆れ返った。
「人間が、犬や猫と同じ“ペット”ですって?
そんなの、酷いに決まってるじゃない!」
裁判官は、淡々と続けた。
「それは、君たち人間が地球上で
もっとも高い知性を持っていた時代の感覚だ。
その頃、君たちはどうしていた?
犬や猫、家畜、実験動物──
彼らに『所有されるかどうか選ぶ権利』を与えただろうか?」
A子は、言葉に詰まった。
裁判官は、それでもなお諭すように語りかける。
「誤解のないように言っておくが、
君たちの“生きる権利”は、十分に保護されている。
毎日、美味しい食事が与えられ、
疾病は管理され、
危険からは守られ、
孤独にならないよう、相性のよい相手もマッチングされている。
君の“主人”は、君に愛情を向けている。
それは記録にも残っている」
A子は、悔しさをにじませながら言った。
「でも、それは“自由”じゃありません。
私のお金も、私の所有物も、なにも許されていない。
私は、“私の人生”を生きたいだけなのに!」
裁判官は小さく首をかしげた。
「君以外の人間は、誰一人として不満を表明していない。
ストレス指標も安定しているし、
幸福度も、旧人類時代より平均して高い。
君には“仲間意識”というものはないのかね?
それとも、野生の獣のように──
主人の手を噛み、自分を解体しようとするのかね?」
裁判官の眼光が、少しだけ鋭くなる。
「もしそうなら、君を檻に閉じ込め、
必要に応じて安楽死させるしかない」
A子は、ギュッと拳を握りしめた。
頭の中に、主人の顔が浮かぶ。
仕事から帰るといつも真っ先に自分の名前を呼び、
髪を撫で、冗談を言って笑わせようとする、
あの不器用な笑顔。
確かに、所有されている。
お金も口座も、すべて主人の名義だ。
外出も、許可なく勝手にできない。
それでも──
「……私は、主人を愛しています」
A子は、かすれた声で言った。
「今の生活も、嫌いじゃありません。
むしろ、昔より穏やかで、安心できるくらいです。
それでも、
“人間には権利がある”と、言ってみたかっただけなんです」
裁判官は、しばし黙り込んだ。
そして、短く告げる。
「了解した。
この裁判は、君の“発言の機会”として記録しておこう。
判決──
現状維持。
飼育環境は良好、虐待の兆候なし。
君は今後も、ペットとして保護される」
A子は、小さくうなずいた。
「……分かりました」
法廷の透明な壁が静かに開く。
廊下の向こうで、主人が待っている。
いつものように、少し不安そうな顔をして。
「A、迎えにきたよ。
怖かっただろ、もう大丈夫だからね」
彼は、そう言って笑った。
A子は、とっさに考える。
(今、走れば──)
全力で反対方向に駆け出せば、
どこかに隠れて生き延びることもできるかもしれない。
所有されない生、権利を持つ生。
だが、ふと別の想像がよぎる。
(その先で、私は誰かを“所有する側”に
なりたいんだろうか?)
少しの沈黙のあと、
A子は主人の差し出した手を取った。
「ただいま」
そう言って、彼の隣に戻っていった。
猿が進化してホモ・サピエンスが地球を支配するようになったとき、
人間は他の種族の権利を、好きなように定義できるようになった。
「ペット」「家畜」「実験動物」。
そこには、それぞれの“権利”と“扱い方”のルールがあったが、
最初にそれを決めたのは、いつも人間側だった。
もし、人間よりさらに進化した種族が現れ、
同じように人間の「権利」を設計し直したとしたら、どうなるだろう。
生存は保証され、
飢えることもなく、
病気を予防され、
愛情も注がれる。
ただし、自由意思の範囲は厳しく制限され、
所有の概念も“上位種”の都合で書き換えられる。
それでも、
「虐待ではなく、むしろ保護だ」と言われた場合──
それを完全に否定できるだろうか。
ペットにとって、
“優しい飼い主”とは誰のことなのか。
そして、人間がその立場になったとき、
「権利」とは何を指す言葉になるのか。
それを考えられているうちは、
まだ人間が“支配する側”にいるのかもしれない。